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○○の幸せレシピ 第十四回「猫様のクチバシ」

アスペルガー当事者の私がアスペルガーを題材にした海外映画を見てみた

 最初に断っておかなければならないことは、私がアスペルガーだというのは自称です。病院の精神科で「あなたはアスペルガー障害を持っています!」なんて言われたことはありません。ただし、30代で発覚して手術した難病はおそらく小学生から発症しており、それもおそらく強い個性の発達障害によるもので、おそらく小学生の頃からあなたは身体表現性障害、適応障害(鬱)と大学病院で言われて、ネットでいろいろ検索したところ、きっとわたしはアスペルガー障害なんだろうなと自己判断しています。
 そもそも私は死なない病気?の診断は数々受けておりまして、8歳~20歳頃は精神的に不安定で、ストレス障害とか狭心症とか甲状腺機能低下症などと言われたことがあります。難病以外には、今はそれがいつの間にか治っている状態です。

 そんな一病息災な私がこちらの映画を見て、何を思ったか。
 一言でいえば、おすすめできる映画です。一方でこの映画だけでは発達障害(自閉症)は語り尽くせません。私が感じた違和感は私が私という症例しか知らないので、実は海外ではそういう判断や見られ方をするのが通常で日本でもそうなのかもしれません。それでもちょっと違うなとか、こんな映画みたいにうまくいかないとは思いつつ、楽しく見られて学びもあるという点でおすすめできます。
 5年も前の映画なんだからおすすめされるまでもなく、たいていの人には有名な映画だというご感想を持たれたらすみません。その場合、以下の感想は無意味なのでここで読むのをやめてください。

「トスカーナの幸せレシピ」

*Amazonプライムビデオ

 検索した覚えもないのに、おすすめに上がってきた映画を見てみたら、発達障害の話ってAmazonさん私の個人情報をどこかから引っ張ってきてませんかね?こうやってnoteに書いていることも情報として拾われているんでしょうか。それはともかく。

 さて、映画の中身についてです。

 冒頭で驚くべきことは暴力事件を起こしたシェフが社会奉仕を命じられて、アスペルガー障害の子どもたちに料理を教えることになるというくだりです。シェフと子供たちが出会わないと物語が始まらないので、その経緯は口で語られるだけであっさりしたものですが、いくら海外でも拘禁刑を受ける代わりに子供の世話をするなんてありうるんだろうかと驚きました。
 日本でも麻薬に手を染めた人が福祉の道に進むことがニュースになることはあります。しかし、それは自発的な行為であって、国からの強制ではありませんからね。

 シェフの身元引受人らしき人は、シェフの師匠のシェフ。その師匠は子供たちの指導にあたる弟子にいうわけです。
「自分の攻撃性を抑えなければいけないよ」
 自分の中の攻撃性をしばしば抑えきれない人を発達障害でなくても子供の指導にあたらせますかね。もしかして腕っぷしが強い方が、子供に押しが効くような日本的な風潮がイタリアにもあるんでしょうか。冒頭で驚いて、見るのをやめようかなと思ったのですが、ところどころ違和感を覚えるところを無視して最後まで見てみればトータルでは面白かったので満足です。
 子どもたちはみんなアスペルガー障害。知的障害はない軽度の自閉症。
 子供たちの監督係である女性カウンセラーはそんな風に説明していました。”私”は知的障害がないから障害の程度が軽度だという説明は病院では受けませんでした。自閉症だから須らくアスペルガー障害だとも説明されなかったので、私はアスペルガー障害というものをここ数年の間でネットで調べて知りました。また女性は、子供たちのことをグレーゾーンだと言いました。グレーゾーンというのは個性の強い発達障害とは言い切れないひとのことを指すのだと思っていましたが、もしかしたら海外と日本では定義が違うのかもしれません。グレーゾーンだから適応障害が発達障害の人より軽いとは限りませんが、発達障害だったら適応障害もおそらく治りませんからね。
 そもそも私が診断を受けたどの病気についても対処療法というもので、根治を目指すようなものでなかったため、治療という治療はそれほど受けたことがないんですよ。手術とか注射とかはありますけど。
 はやり病で市販の薬しか病院で出されなくて意味ないという言葉をネットでよく見かけます。しかし、薬は一瞬で病を治す魔法の呪文ではありません。なんなら副作用もあるので、私の認識ではそうそう薬をもらえて治療なんて受けられないイメージなのです。もちろん、ところ変われば薬をたくさん処方される場合もあるのかもしれませんが、それってそうしたところで治る見込みがないと匙を投げられていませんか?
 とりあえずアスペルガー障害だと言いながら、映画の中の子供たちは誰ひとり何らかの薬を処方されて持病があって治療を受けているような描写はありませんでした。そういう面で見れば、軽度なのかもしれません。しかし、カウンセラーの先生の生徒に対して常に甘々な態度には少しイライラしてしまいました。おいおい、正しくなくても子供に合わせるっていうのかい?って。

 一方でシェフの弟子になった少年は、当事者の私からするとなんらかの不安障害を抱えているように見えました。私がその年頃だった20年前にはまだ発達障害の研究が世界でも進んでいなかったそうなので、「おかしい子だな」と思われながら見逃されてきたのかもしれません。しかし、普通の子どもとして育ってきましたし、周りに迷惑をかけたかもしれませんが知的障害がないのに、そう見えるみたいな扱いもありませんでした。
 特に映画の少年は非常に記憶力がよく、シェフが「絶対味覚」と称するほど繊細な舌を持っていました。これは私にも覚えがあることで、私も言葉を話し出すのが早く歩くより早く話し始め、走る前に文章で語るようになっていました。でも、それで他人から賞賛を受けたことがありませんし、ましてや天才だ!なんてことを言われたこともないです。おそらく知能検査の結果も平凡だったと思います。好きな小説の一節を暗唱したところで、それを誰かに披露する機会なんてそうそうないですし、そんなことをして語っても誰かに理解なんてされません。所詮、こだわりというのは自分の中だけの満足で終わるものなのです。

 まず物事を自分で勝手に学ぶには言語を覚えなければならないです。楽器を使うためには、楽器に触れなければなりません。字が読めないまま覚えられることには限りがあり、小学校に上がってしまえば、耳で聞いただけで覚えたことより字を読んで覚えた記憶の方に軍配が上がるのです。これまで数々の料理を食べてきた経験もない少年が「絶対味覚」なんてものになることがあるのか私にはよく分かりません。ただ物事の再現性に優れている人だとするならば、そういうこともありうるのでしょう。それでも、舌はともかくそんなにすぐに技術が追い付かないだろうとは思いましたが。かといって、子供らしい感性を発揮せず、それが大人の物まねに終始するものならば大人からはひどく落胆されるのが現実です。
 私と同じ。
 同じだけど、同じではない少年の話です。
すごいね、素晴らしいねという賛辞はどれほどうれしいものなのか。不確かな底意の見えない賛辞よりも相対的で絶対的に正しそうなトロフィーに固執するような気がします。

この世に必要なのは完璧なトマトソースのスパゲティだ
 誰かに分かってもらえなくても自分たちが分かっていればいい。そうだとするならば、どうして料理人になって誰かに料理を振舞おうとするのでしょうか。少年は作った料理を好きになった少女に食べてもらいたかったのです。その辺はよく分かりません。周りに認められて恵まれて、それでもなぜ孤独を感じるのか。親に捨てられ、祖父母に育てられ、結婚して子供を持ち、祖父母を安心させることに固執する少年

 日本でもしばしば発達障害の人間が性衝動を抑えられないように語られることがあります。マシンガントークの天才少年が物事にフルパワーで取り組んだら、行き過ぎた暴走をすると限ったものでしょうか。ストーリーの中に無理やり恋愛要素を盛り込みたかっただけのようにも感じました。実話だったら失礼な話なんですが、そこまで目的がはっきりした少年ならもっと確実なステップを踏もうとするんじゃないかと個人的には思ったんですよね。
 自分に好意があるか分からない相手に突撃して玉砕なんてするんでしょうか。師匠とカウンセラーで監督者の先生の恋愛模様もなくてもよかったかなと個人的には思いました。私自身は読者として物語に恋愛要素がなくても楽しめるタイプなんです。

 物語は冒頭から見られた王道の展開で、こじらせた天才少年とかかわるうちにシェフが自分のままならない人生を受け止めて、人生観が変わっていくお話です。
 拘禁刑のかわりに社会奉仕を命じられ、子供たちに料理を教えることになった。
だれもおれを雇わないし、俺も誰にも雇われたくない。自分で店を持ちたいんだ!”
このシェフもだいぶこじらせてますが、その気持ちは私もよく分かります。ただ、自分で店を持つことは人とのかかわりを断つことにはなりません。また、自分が満足するだけでなく他人も満足する料理を作りたいなら、引きこもりになることは不可能ですよね。
三流店で働くには腕がよすぎる、一流店で働かせるには経歴が悪い。自分の店を持てよ
俺に話しても無駄だぞ。自分を助ける方法すら分からないんだ
言葉巧みに彼を利用しようとする周囲は、その割に彼の痛いところをついて本質をよく見抜いています。彼は周囲とうまくなじめず、それが自分の性格に原因があるだけでなく、これまで周囲が彼をいたわらず認めてこなかったことにあることも分かっています。社会人経験のある人間であれば身につまされるような言葉がこの映画には端的に詰め込まれているのです。話の流れからは多少セリフが唐突に出てくる感じではありますが、テレビドラマではないので、2時間の映画にメッセージを詰め込むには多少強引な展開に持っていく必要があるのかもしれません。

 料理のコンテストに出場した少年は決勝まで進みました。しかし、料理を再現することを拒み、優勝に至りませんでした。魚にココアをかけたくなかったのです。それは私も考えただけでかけたくないですが、そういうこだわりって別にアスペルガー障害でなくても持つんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう。実際、師匠もその師匠の師匠も少年に共感して終わるのです。

 案外、アスペルガー障害だとしても平凡な感覚と他人への共感性はある程度持っています。そして、私は少年ほども他人との交流に興味がありません。少年を演じた人は一目でそれとわかるほど”こだわりの強い人間”を素振りでも表現していました。それは見事でしたが、平凡な大人になった人間にはこのような天才少年の話は一例としても参考にはなりません。学びはあるけれど面白い映画で終わってしまいます。

この世に必要なのは完璧なトマトソースのスパゲティだ
そんな哲学があったなら、それがどんな人だったとしても信じるものがある限りそれはそれは素晴らしい人生を送れることでしょう。私もそんな自分を幸せにする素敵なレシピがほしいです。

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