幸せのハードルは誰のためにあるのか
「花束みたいな恋をした」という映画に、こんなワンシーンがあるんですよ。(以下ネタバレ注意)
映画鑑賞時の私には、このシーンの絹の言葉が深く刺さって。「うわぁぁぁ、きっつい、こんな真っ当なカウンター!」って感じ。自分の夢を目指すことを辞めて手に入れられる他の幸せを探すって、幸せのハードルを下げてるんよなあ、と。
この台詞、私の中でよほど印象的だったのか結構自分の中に残っていて、2年前の映画なのに今でもふと思い出したりするんですよ。でも、2年越しに思い出すその言葉への思いは、当時とは少し違いまして。
なんなら、「いいじゃん、幸せのハードル下げて本当に幸せって思えるなら、それってほんとに幸せじゃん。」なんて思っちゃっているわけです。
分かりやすいように幸せの源=お金に換算して話すと、5万円で楽しく暮らせるAさんと、40万円あっても足りなくて「50万稼がなきゃ、でも難しい」って困っているBさん、どっちの方が幸せ?ってなったら、多分5万円で満足できる方じゃないですか?もちろん傍から収入を見たら圧倒的にBさんになりたいですけど、Aさんは稼ぐお金のハードルがBさんの1/8で幸せになれるんですよ。
こうやって考えるとやっぱ私はAさんのが幸せだなって思っちゃう。だって単純計算Bさんの1/8働いて幸せに暮らせるわけだし。時間にも余裕出来て、超ハッピーじゃない?
そもそも1個ハードルを下げたからって、次に迎え撃つハードルがまた低いとは限らないし、何ならもとより高いハードルが来るかもしれないし。前と同じ高さのハードルをあとから置くこともできるわけだし。そう考えたら一時的にハードルを下げたことによって、本当に幸せを感じられるならそれは本当に大変幸せなことよなと。
とはいえ意見は二転三転するけど、結局「本当に幸せを感じる」っていうのが難しいわけで…。1度超えられなかったハードルのことをちらちらと思い出すような生き方は、それはそれで大変よね…、って気持ち(悪いとは思わないけど)。麦くんと絹ちゃんはこの後結局別れるのですが、もし別の世界線だった時。結婚して子供が生まれたふたりは確かに幸せに過ごせるかもしれないけど、結局麦くんは家庭を守るために今の仕事を続けることになって、それでふと自分の書いた絵を見つけたときに「これでよかったのかな」って思ったりしちゃうかもしれないですし。
とにかく自分のことは自分で幸せにするしかないな、と思ったという話でした。
ハードルを下げようが上げようがそのままでいようが、幸せに生きられるかどうかは自分の感じ方次第。考え込みすぎず今ある幸せを大切に長い人生少しずつ歩みたいものです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?