thema1; 時間の結節 the meaning of bridging multiple diverse timeliness
高校生の頃、面白いとかつまらないとかでなくて、読んだ後にホワンと不思議な気持ちになった本があって、それは本川達雄さんが書かれた『ゾウの時間ネズミの時間』という緑色した新書なのですが、むさぼるように読んでから、へ?!ってなったことを今でも覚えてます。
本川さんてお父さんも高名な生理学者で、そりゃもう超サラブレッドの生物学者なのですが、たぶん生物学者っていう肩書はある意味カリソメで、とにかく多様な視点 POV; Point Of View から世界を見つめ、それを記述し蓄積し、文脈を形成することで世界の普遍性を見つけようとする冒険家。
そうなんです、アーティストと何ら変わりないお仕事をなさっている方。勝手にすみません。
乱暴ですが、ゾウとネズミ(勝手に略してます)をまとめるならば、世界はたったひとつじゃないんだということ、真実はたったひとつじゃないんだということ、さらに言うなら時間だって流れる速さはいつも変わるし、その上そこにはきちんとした意味と必然性ってやつがあるんだよ、そんなことが書かれている気がします。
そしてそれは、世界は一つで、たった一つの真実とやらを探すために生きていこう!限られた時間を大切にしながら。。。と青い空を見上げ春を感じながら生きていた高校生の私(いわゆる青春てやつです、もしくはただの17歳(笑))には、宇宙ででんぐり返しをしたら青い銀河が目の前に広がるくらいの驚きで、片っぽのお尻のほっぺに新しい眼がひらいた瞬間だったように記憶しています。本川先生ありがとう!!
まぁ、この考え方が後になって(ユクスキュルていうこれまた高名な生物学者かつ哲学者が言う)環世界ていう概念につながっていたことを知ったり、昨今、さすがに地球のほころびが可視化されてきたことで声高に叫ばれつつある、人間中心主義の終焉みたいな思想につながることを知るのですが、でもとにかく『時間はゆがむんだということ』『時間軸はひとつじゃないんだっていうこと』を知ったことは、その後の私の生き方に大きく作用してきたような気はします。
そこで、ムクムクと顔を出すのは自分の中に潜むMごころ。
自分の時間じゃない時間の中で生きてみたらどうなるんだろうか?そんなことを意識しながら生きていると、これめちゃくちゃ楽しい。なんなら自身のすべての思考や行動の中で、本当に自分の時間軸だけに基づいて規定されてる要素がどれだけあるのか逆に心配になるくらい。。ってどんどん話がそれるので、ここは閑話休題。
というわけで、ようやく少しだけ本題に。
アーティスト(カリソメ)が建築家(カリソメ)と一緒に建築物から成る空間をつくり、そこにアート作品を配置し、そこに人々が訪れることの可能性みたいなことを考えたいと思っているのです。
『アートに宿る時間』と『建築に宿る時間』それらを作り出すアーティストや建築家を含む『人間に宿る時間』、そしてそれらを包容する『自然が宿す時間』(無為自然みたいなことも、ここでは含んでます)と、実は最もすべてを許容するようでいて厳格な『みんなの時間』(みんなの時間てある意味、誰のものでも無い時間、もしくは誰にも帰属しないある種の普遍的な時間なのかもしれなくて)とかが、リアルなこの世界で交わるときに、その時間軸のギャップみたいなところ、そのほころびみたいなやつが可視化されることは実は案外少なくて、でも必ずそのほころびはあるはずで、その時間軸同志のズレ/ギャップに潜むあわいを、感じてみることには何か意味があるんじゃないか。あわいを見なかったことにするのでなくて、なんならあわいに注目しながら面白がってるうちに、そこに新たなカタチ?もしくは時間が立ち上がってくるんじゃないか。。。
今回のプロジェクトで、さわがABとものを作っていこうとする姿勢を見るにつけ、そんな可能性への疑惑が確信に変わってきたように感じるのです。
時間と時間が交わるときに生まれるあわいを、うまく可視化してあげることで(例えばアートと建築だったり、人間と自然だったりの)異なる時間軸の上に成立する二つの世界の結節点が生まれ、そこにこれまたムクムクと新しい世界が立ち上がり、新たな時間が成立する可能性。そして、その可能性に身(もしくは時間軸)をゆだねてみることで、これまで見えてこなかったものが見えてくる体験。
どんなに長くても100年くらいしか生きられない我々が、その限られた時間(!)の中でどれだけ豊かに世界をとらえることができるのかを考える時に、vehicleとしての身体についている二つの眼の限界を超えて、複数の時間軸の上に成り立つ世界を知覚し、認識し、想像し思考し、そこで何かをつくり企てていける可能性があるって考えただけで、ワクワクするのは私だけ?!いや、たくさんのモノの見方を感じ取ったうえで、そこに立脚した想像を巡らせたほうが、世界が色とりどりに見えるように思うのです。
アーティストがアートの歴史の台地の上にすっくと立ち、アートの世界のルールに従い、アートの装置による規定のなかで作品をつくり見せることにはとても大きな意味があると思っています。というか、基本的にそれができて初めて、プロフェッショナルなアーティストなのだと思います。それらの制約の中で、いかによい(敢えてつかっています。個人的には良い悪いの絶対基準は無いとは思っていますが。。)作品を生み出し、残していくことができるのか。そこにもうあらん限りの情熱と心身を砕き、生涯をささげるのがアーティストの一生だとも感じます。そして実は彼らも、その制約の外にも世界があることをうっすら知りつつ戦っている、そんな風に感じます。
アートの制約の外の世界。。。。
そんな世界で、アーティストが何か実験的なことをしようとするなら、どんな可能性があるのだろうか。そんなことを、ここから考えていこうかと思っています。
長くなってきたの一旦休憩🍵
theme1、後編に続きます。
巻頭写真:Kanazawa 21st Century Kogei Festival ©Hiraki Sawa
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