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最優先事項

仕事をする中で経験してきた評価制度は、会社によって違いはあるもののおおざっぱに言うと「目標管理制度」でした。あなたの今期の目標、達成すべきことはこれをこれだけ、どこまで達成したら100%、100%達成したらボーナスは〇か月、みたいな。また担当する仕事もジョブ・ディスクリプションがあり、担当範囲がだいたい決まっています。

だから、そういう風に仕事をしてきました。担当範囲はここ、すべきことはこれ、と。

おまけに、生活のために、食べるために働いている感満載だったので、とても割り切っていました。つまり担当範囲を期待されるだけの仕事をしたらいいよね、あとは自由で…みたいな。

それで、担当範囲を期待されるように仕事をしていたはずなのですが、たいていの場合、でも何か違う。つまり、評価されない。職場もいつも居心地が良くない。なぜなのか不思議でした、とっても。

その謎が解けたのはごく最近のことです。30年も働いてきて遅すぎますよね? もう会社も辞めちゃったので、謎は解けても評価される立場でもなくなってしまいましたので。

でもせっかくなので、その謎を大盤振る舞い、公開しようと思います!

それは”誠意を尽くして一生懸命にやっていなかった”ということです。

え? でも、自分ではちゃんと目標を達成していた自覚はあったのでしょう? はい、確かに。でも、傍目に映る私の見え方として「軽くやっている」という印象があるようです、どうも。昔、会社が分割されて切り離された先に転籍になった時に、それまでの仕事を後任者に引き継ぐためにファイルをドンと何冊か渡しました。すると「ゆうこさん、こんなに(たくさんのことを)されていたなんて知らなかった!」と言われました。当時(25年前)は娘も小学生だったので、ほとんど残業もせず、終業チャイムと共に去る、が私のワークスタイル。だからよけいに、一生懸命にやっているように、周囲の目には、映らなかったのだと思います。

聖書を学ぶようになってすぐに気づいたことがありました。
それは仕事も含めてそれまでの私の生き方そのものが”聖書の教えと真逆だった”ということです。聖書で、ああしなさい、こうしなさい、と書かれていることの、ことごとく逆を、私は行っていたのです。それで人生のあらゆる面でうまくいかないスパイラルに陥ってしまいました。

なので、それなら聖書の教えに従う人生を歩むときに、真逆だった頃と何がどう違うのか、自分でシカと確認したい、と思いました(私は生き方でも、健康や美容法でも食べ物でも何でも、良さそうなことは自分で人体実験して確かめてみるのが趣味)。

そして、方針として掲げたのが、新約聖書 コロサイ人への手紙3章23節:

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

※主=人間を造られた創造主の神様

これを、特に仕事に適用することにしました。つまり、どんな仕事でも私を造ってくださった創造主に納めるつもりでするわけです。
そして、ここで重要なのは、その創造主は私のことは私以上によくご存じで、私の精一杯や能力の程度は如何ほどのものか、もご承知ということ。おまけに24時間常に私をご覧になっている(人が寝ている間も起きて働いておられる、と聖書は言います)。つまり、誤魔化しがきかない! 目標管理で上司の目に映る範囲なら、150%できることを100%で済ませておけば“達成”とみなされる。でも“主に対してするように心からしなさい”と言われると、そういうわけにはいかない、ということです。

結果、何が変わったかというと、信頼されます。
主にするように精一杯とは、必ずしも100%の完成度とかミスがない、ということではありません。逆に、ミスや落ち度がある場合にも、誤魔化しのきかない主にするようにするわけなので、気が付いた時点で自ら非を認めて速やかに素直に謝る。それは、慣れるまでは多少の抵抗はありました(笑)。だって、黙っていれば誰も知らないで済むようなこともありますし。でも人の目に知られていない、という問題ではありません。結果、ミスはあったとしても、その正直な対応と姿勢ゆえにかえって信頼されるのです。

最後に勤めた職場では秘書と人材開発を担当していました。とにかく誠意をもって仕事する、に徹してそれを積み上げていくと、2年くらいたった頃から、全体として信頼されているのを実感できるようになりました。そうなると仕事がしやすいですよね? 何か提案したり協力を依頼したりしても快く応じてもらえたり助けてもらえたり。私の仕事人生の中では、ある意味、職場でのコミュニケーションが一番スムーズだったと感じます。

それ以前は、職場の付き合いも最低限と決めていて、極端に言うと本当にただ仕事するために、会社に居ました。でも、仕事するのは人間同士であり、だから信頼関係が土台にないと、単に成果だけ出していてもうまくいかない、ということが、聖書に出会あってようやくわかりました。それをわからずに過ごした仕事人生の長さを思うと本当に愚かだったし、無念ですね…。

これはクリスチャンだからあてはまることではありません。仕事の課題やノルマは山とあって、とても何事も誠実に心をこめてなんてやっていられない!と叫ぶ声が聞こえていますが(笑)、でもこのことを最優先にやってみる価値があることは太鼓判。 JUST DO IT!

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