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自己評価と価値 再掲

(ある方がスキを付けて下さってたので再掲いたします)
突然ですが、noteはクリエイター集団の世界と言われます。

実際どの方の投稿を見ても他のSNSに投稿されている記事とは一線を画しています。

記事に込められた意味、時間、そして綿密に裏付けされた記事内容、
どの方の記事を見ても圧倒されます。

その中で。今まで、私がnoteで書いている意味はたった一つでした。

noteだけは記事を投稿するたび、応援してくれたり、ほめてくれたりしたからです。

もちろん、自動的に「ロボット」が行っているだけです。

今はスキを付けてくださる皆様に励まされて

駄文を撒き散らしています。

誰の投稿を見ても私ほど適当な記事を書いている方はいません。

とうとう

おすすめの記事に

「言葉を大切にしよう。」

というカテゴリーの記事が表示されるようになりました。

ところで、「自己評価」という言葉があります。

環境や現在の状況、また、ある種の疾患の症状として、またはその方の人生における体験によって、

「自己評価」が非常に低い方がいます。

それとは別に

客観的にみて価値以前に害悪ではないかと思う人間が「異常」(非常ではない。)に自己評価が高い

ことがあります。

この種の人は大きく分けて2種類あり、

いわゆるサイコパス

犯罪の天才

です。

いや、おれはやっぱりすごいし、なんて言っても年収は1億超えだし、

とか言う方は

自己評価と実績が一致している方で特に大きな問題はないと思います。

周囲に対して何らかのハラスメントを行っているとかでなければ。

別投稿にも書きましたが、貨幣価値そのものには何の意味もないと思います。
高収入の方はもちろん、他人の理解を超えた部分で大きな努力をしている方も多いですし、そちらの方々のほうが圧倒的に多いと思うのですが、

私の知る限りではこういう方々の自己評価は特に高いわけではありません。

自己評価などという概念を持っていない方も多いです。
当たり前にご自身として存在しているだけです。


ですが、世間には特に何の能力、努力もなく、さまざまな環境要素によって高収入であったり、取締役などの役員であったりする方々もいて、

前述とは別に

能力とは無関係に「非常に」高い自己評価を持つ方々がいらっしゃいます。

別に悪いことでもなく、正直それはそれとして、特に意識はしないのですが、

どうして自己評価が高いのかは全く理解できません。
でも、そのメンタルは評価します。

個人的にこういった方々が社会に貢献している部分があるとしたら、高額納税者である、という部分なので、もちろんのことですが否定しているわけではありません。

私が理解できないだけです。


例えば株価の変動で資本家は利益を得ます。別にそれが悪いわけではありませんが

「経済」としては意味あることでも「現象」としては何の意味もないと思うのです。

そもそも貨幣など、「物々交換が面倒なので持ち運びが便利な『価値の代替品』であって、食べることも使用することもできない疑似物質」くらいの意味しか私には見いだせません。

なのでお金は「使うことで楽しみがある。」「貯めることで将来の楽しみがある。」という部分は享受したいと思いますし、「自分ではできない作業を代替していただく」ために使ったりという部分で喜びとしたいのですが、

自身の自己評価に用いたいとは思いません。

ただ、ビンボな人ってひがむよね。と言われたらその通りです。(私のことです。)


突然こんなことを言う理由は、
貨幣で量る価値を作り出せないと言うたったそれだけの理由で自身の「自己評価」を著しく下げている方たちがいらっしゃるからです。
さらにそういう方に追い打ちをかけるような発言や行動をする人たちもいます。

私は正直に言いますが、

残念ですがどちらの方も好きにはなれません。
「稼げない人は価値がない」と思っている部分は「お金を作れないことが理由で」自身の評価が低い方も、追い詰める周囲の人も同じだからです。

導入部と内容がいまいち一致しないね、と思われるかもしれませんが、

note に記事投稿される方は、ハイレベルの投稿を時間も資金もご自身の経験も惜しみなくつぎ込んで、「価値」を創造しておられます。

どの方の投稿も

大変「美しい」のです。

その姿をごらんになり、「価値」と言うものを意味を考え直すことも必要ではないでしょうか。


どう考えても「儲けることを前提に」は投稿されているようには私には見えません。

価値の創造は自己評価に直結します。


ここで間違わないでほしいことが一つあります。

全ての方はそれぞれ、この宇宙で唯一の自我を持った絶対的な無二の存在です。

あなた以外の存在は生物であれ、無生物であれ、あなたが認識する外的事象に過ぎません。

存在自体がすでに究極の価値なのです。

それは自分自身であったとしても絶対に否定してはなりません。

究極の天才であるアインシュタインはこう言っています。

「普通と呼ばれる人生を生きるものなど一人としていない。」

ただ、自身の自己評価を保つためには「愛情」というさらに必要なエネルギーが存在します。いえ、ここは自身の「尊厳」と言えましょう。


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