MyStory第2章~風まかせな自由な2人

2005年はじめ、社交ダンスと出会ってから10数年後、ようやく一緒に歩んでいけるパートナーと巡り合えた私。第2章はそんなパートナーシップのお話。避けては通れない大切なものである。


野獣使い?

岡山大学のダンス部だったパートナーは、大学の先輩後輩でいえば私が一年生の時の四年生にして、関西ラテンチャンピオン。もし私が直接の後輩であれば頭の上がらない「神」のような存在だったといえる(笑)
そのままプロの道を選んだ彼が心機一転、岡山から上京してきたのとすれ違うように、私は神戸でプロダンサー生活を始めた。
お見合いの時などに話をしているうちにいろんな共通点が見つかった。神戸と東京に共通の知人がいること、入れ違いで出場していた岡山の競技会、なんだそうだったのか~とバラバラだった物事が符合していく。そして兎を飼ってることも。
偶然がたくさん重なると話が盛り上がるもので、純粋に楽しかった。
思えば。それまでビジネスと割り切るために、弱さを隠すように鎧を着て戦闘モードだったというべきか。パートナーが新しくなる度にその人の勤務しているスタジオへ単身乗り込んでいく緊張感があったというのか(すぐに馴染むから違うかも?)。
とにかく、偶然の共通項がサプライズ的にあったことで親しみがわいて警戒心はゼロ。さすが公園で捨てられていた兎を拾って飼ったというパートナーだ。野に放たれた動物のような私でもなついてしまうような空気があったのではないかと思う。アナタは野獣使い?(笑)
バイト先でお世話になっていたおばちゃんが「夫婦仲円満のコツは自分が進んでお茶目なことして楽しんじゃうことよ~」と語ってたのがようやくここで腑に落ちたのである。

メデタシメデタシ・・・
なわけはない、そりゃそうだ。
ここから、様々な出来事を経ていくうちに性格的な違い・物事に対するプロセスの違いを存分に味わう。既にお互いプロ歴10年くらいともなればそれぞれのやってきたスタイルが確立されているし、そもそもダンサー同士は我が強い。さぁ、どうなる?


全然違う、けど
カップル結成をしてしばらく、まずパートナーが背中を痛めその後私が肋骨を脱臼した。だから練習は少しずつやっていた。
そして自分達のダンスの構築よりも先にスタジオを出すことになってしまった。組んで半年くらいのことである。
フリーのダンス講師として場所を借りてレッスンしていたパートナーだったが、そのメイン会場が人手に渡ることになり新たな場所を探していた。そこは私達も練習場として使っていたので大問題。
そこで運よくあったのが社交ダンス教室の居抜きの物件。活動地域がまったく変わらない近いところに。ダンス教室に必要なフロア・鏡・音響の配線がすべてそのまま。市の区画整理で道路予定地にひっかかっているので数年後には退去しないといけないのだが好条件。とりあえず場所を借りれればいい!と思ってたのだけど、周囲の生徒さん方からのプッシュもあり「岸田ダンスアカデミー」の看板を出すことに。ちなみに結婚したのはその1年半後。順番などお構いなしである。
とにかく、そこからの展開は怒涛だった。
契約してほぼ2週間くらいでスタートすると決める。
お客様をお迎えするのだから、音響機材準備だけでなくスタジオの備品整備や雰囲気づくりといったインテリア決め、うわぁ~大変だぁ!と焦ってアクセクしていたのは私。一方パートナーはマイペースに、まずはフロアがあればいい、最悪音響はCDデッキで始めて徐々になんとかすればいいだろう、と。
リサーチにリサーチを重ねてベストを決めるのに時間をかける私、目の前にあるものの中で即決するパートナー。なんというスタンスの差。

そして、この構図はこれから先よくでてくるのである。
スタジオの移転・ホテル開催の盛大なパーティーというビッグイベントから、日々の仕事や練習に至るまで。
最初は山の如く動かないパートナーにイライラっとすることもあったし、風の如く動きまわる私を理解するのもさぞ大変だっただろう。
でもこの山は普段は動かずにゆったり構えてるけど、動き出した時のスピード感とパワーは噴火するかのようにすごい。コツコツ動き続けている私にはそのマグマのような威力はない。
結局、私が動き回って事を起こして迷ったらパートナーがスパッと決める・・・という役割分担で落ち着いている。

パートナーは理系、私は文系。気になるところ・分析したくなるところが全然違う。レッスンで習ったことの感じ方なんて全然違う。
私は好奇心旺盛で動き回るのが好き、パートナーは休みをとる天才。「ぐうたらの師匠」と愛情を込めて呼んでるが(笑)、オーバーワークして空回りしないためのゆとりを彼から学んだ。
けど、やはり動き回るのが好きなので、アクティブな弾丸旅行はゼッタイ1人で行く。パートナーはそれを「無事に帰ってくればいい」と快く送り出し、ゆったり過ごしている。

今のパートナと組む以前の私は、この部分が面倒くさくて、あっさりビジネスの方がダンスだけに集中できて良いと思っていた。自分の常識と違う人に合わせるのか、無視するのか・・・前者はストレスが溜まるから、後者にすると関係が冷める。いや、そんな二択じゃないのだ。この部分に向きあわなかったからそれまでパートナーシップが長続きしなかったのだろうな。パートナーシップを円滑に進めるうえで大事なことから目を遠ざけていた。

「違うじゃん!」ではなく、「補いあってる」「違うから面白い」のだ。
テレビで所ジョージさんが「夫婦は違うからいいんだ。だって俺は俺と結婚したくないもん」的な夫婦観を語ってた。
確かに~。

同じ時間・同じ体験をしつつお互い自由な現地集合現地解散型。合わそうとしないけどなんとなく合う。私達のスタイルはこんなかんじに落ち着いた。

ダンスも同じ。話し合いはするけど、二人で一つにはならない。それぞれの個と個のセッション。だからライブ感があって面白い。それを単なる運動ではなく、ストーリ性のある・ドラマ性のあるダンスと評価してくれる人がたくさんいる。それ、私にとってすごく大事なポイント。
でも、二人が大事にしているものは一緒。エネルギーや魂。抽象的なところが合っていれば、具体的なプロセスは人それぞれでいいのだと思う。


風まかせ

二人がなんとなく合っているのもの、それは人生観。
亡き父がよく話してくれていた岡田家の家訓のような言葉、
「常にニュートラルで浮き雲のように風まかせでいなさい」
この感覚が一緒なのだ。
ちょっと聞くと、何もしないで流されていくのか?と消極的に思えるが、
これは「人事を尽くして天命を待つ」という意味の方が近いのか。やるだけの事をやって、後はあがかず覚悟するとか、穏やかなココロで結果を受け入れるとか…「最後はなんとかなる」と楽天的に信じているというのか(笑)

まぁ振り返ってみると、たいてい何かこだわりを捨てた時に思ってもみなかった大きな変化が訪れている。二人でそんな体験をしてきた。

その一つが年齢。競技選手にとって必ず向いあわなくてはならない壁である。身体の細胞の衰えは、体力や運動能力だけでなく、ケガやリカバリーの遅さに表れてくる。正直悔しい。簡単に引退したくないから。
「今まではできたのに」「こんなはずじゃないのに」、今の自分を認めたくない。「もっと筋トレしなきゃ」「もっと練習しなきゃ」といった焦りがでてくる。どちらも逆効果である。
しかし、身体の老化を受け入れたら楽になった。違う作戦が見えてくる。同じ方法でずっと通用するわけがない、その時々にあったものにリニューアルしていけばいいだけ。
そんなこだわりを捨て引退もやむなし・・・と思うと何故か競技会の成績が良い。「多分、まだ辞めるなというサインなんだね~」と受け取り今に至っている。

そして。とりあえずストンと流れに乗ってみることの大切さも共有している。チャレンジしていることが上手くいってる時は、たいてい物事の進むスピードがものすごく速い。恐ろしく速い。その決断で行こう!と思っていても展開が速すぎると「ホントにこれで決めていいのか?」とかえって疑い躊躇する。スタジオ開設、スタジオ移転、マイホームの契約、そして競技団体移籍・・・大きな節目はたいていそう。
特に競技団体移籍は大きなターニングポイント。それにより、自分達の活動の幅が広がった。これはまた最終章で書くことにする。

自分達の目の前の流れに恐れてのらないか、勇気を出してのるか。ここの嗅覚というかカンが一致していてよかったと思う。


ダンス抜きの私って?
さて。私自身が40歳を超えてくると、まだまだ踊り続けていたいという気持ちとともに、引退して私から競技ダンスがなくなったらどうなるのだろう?という事がアタマによぎりモヤモヤすることもあった。なぜなら、その後のビジョンがイマイチはっきりと浮かんでいなかったからである。
私自身が踊りたいがために、銀行を辞めバイトをし、そしてダンス講師となった。踊れることが最優先であとはなんでもよかった・・・乱暴で極端な発言だが一理ある。ダンス講師という仕事に対する意識が世間離れしすぎてたと思う。だから、引退してもダンスの探求は続くとはいえ、その時間は減るだろうと勝手に予測し、自分からダンスをとったら何もない人間なような気がした。ダンス抜きの素の自分って世間的に魅力あるのかな?と。

実は、スタジオ開設から1年後の2006年から書いているスタジオブログがあるのだが、その当時と今では明らかに書いている内容が違う。その当時は、月2回くらいある競技会のこと、ペットのこと、オフで遊びに行ったことなど、まさにたわいもない日記だった。その内容が変わってきたのが2011年の大震災後。そして、それに続く両親の病気・介護・別れ。これが、自分の社交ダンス講師としての仕事に対する意識を変えた。

今の私を作り上げているのは、40歳以降の出来事が多いと思う。実際、様々な経験をした。そのおかげで、自分のことばかり見ていたのが視野が広がった。40代はつらいこともあったけど、年を重ねるたびに充実している実感がある。

最終章はそんなお話を綴っていく。

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