秋の「ある」世界へ|氷ノ山〜鉢伏山縦走
毎年、「秋が短い」と、誰かが呟いている。
友だち、家族、たまたま隣に居合わせた人、かな。よく覚えてはいない。けれど、みんな「秋が無いねぇ」と言う。
今年もそうだ。9月、10月と月日は進めど、いつまでも夏日が続く。かと思えば、いつの間にか外出時には上着を織るようになっていた。山では雪が降り始めているところもある。
やはり、秋は短いのだろうか。
いや…、私にとっては、秋はとても長い。
だって毎年、山に登り、秋を追いかけているから。
登山を始めて8年が経った。コツコツと登り続けている内に、登れる山が増え、歩く距離が長くなってきた。そうしている内に、山の秋はいつから始まり、いつ見頃を迎えるのかを、経験から感覚的につかめるようになっていった。
日本の山の秋のスタートは、北海道の最高峰、旭岳。7月は残雪があり、8月中旬を過ぎれば、秋のにおいが漂い始める。
そして、9月中旬が、旭岳を含む大雪山系の紅葉最盛期。赤や黄色や緑のコントラストが、素朴ながらも色鮮やかで、自然と心躍る。
「やっぱり、秋が一番好きだなぁ」と、何度でも思わせてくれる景色だ。
そこから、紅葉前線が日本列島を南下していく。9月下旬から10月上旬には、2500~3000m級の山々が、色付く番。北アルプスは紅葉狩りのハイカーで大賑わいだ。
▼北アルプスの紅葉登山の模様はこちら
そして、10月中旬を過ぎれば、1500m前後の山々も色付き始める。低山ハイキングにもってこいの季節が到来。遠くにいかなくとも、身近な山で、手軽な山歩きが楽しめる。
最後に、麓の街の木の葉が色付く。それが、私の住む京都での最盛期は、11月下旬から12月上旬くらい。いつもの散歩道に、紅葉やイチョウが映えて、ついつい上を見ながら歩きたくなる。
こうして、かれこれ3カ月も秋を楽しんでしまっている。
紅葉前線を追いかけて、秋の山を登る。この楽しみ方を知ってしまった今、もうやめられない。
もちろん、北海道から九州まで、毎年全ての山を制覇することはできないけれど、季節が進むごとに、登る山の標高を下げて、お山歩するのだ。
そうして、今年も例外なく、秋の山に遊びに来た。
今年の10月中旬に訪れたのは、兵庫県にある氷ノ山。日本二百名山の一座で、標高は1509m。手軽に登れるよい山として、ハイカーに愛されている山だ。
今の時期、おそらく紅葉の見頃ではないかと思い、早朝に車を走らせた。登山口に近い駐車場に車を停めて、山を見上げた途端、口元がニンマリ。真っ青な空に、赤と橙色に染まった山肌が目に飛び込んできたのだ。
何せ、先週は別の山で大粒の雨に降られてしまったから。おかげで、レインウエアが浸水。服がびちょびちょになり、寒さに耐えられず、途中で下山した。レインウエアを見直す良い機会にはなったものの、登山はやっぱり、晴天に限る。
朝の気温は10℃以下。ひんやりするが、歩くとホカホカと体が温まっていく。
前夜の雨の影響で、登山道のところどころはぬかるんでいた。水たまりになっているところもある。慎重になりながらも、サクサク歩みを進めていく。
歩き始めて2時間20分経った頃、氷ノ山の山頂に着いた。山頂にはたくさんの人がいて、各々が休日登山を楽しんでいるようだった。
ぶるっ、と急に体が震える。
立ち止まると、汗冷えで一機に体温が下がってきたのだ。上着を羽織り、草陰で体を休めた。
梅干し入りのおにぎりを頬張り、エネルギー補給をしたところで、今度は鉢伏山のほうへと縦走する。実は、今日は20㎞ほどのトレイルを歩く山旅なのだ。
山頂を出てしばらくは、ロンT(ベースレイヤーと呼ぶ)1枚に、メリノウールパーカーを着るスタイルがちょうどよかった。
手首、手先、足首も案外冷えるので、薄い手袋とハイソックスを着用。それで快適に歩けた。標高が100m上がると、気温が0.6℃下がると言われているので、標高が上がったり下がったりする登山では、衣服による体温調節は必須である。
美しい縦走路を眺めながら、サクサクと歩いた。風が、気持ちよい。絹のように、肌を柔らかく撫でてくれる。
そして、道中の紅葉があまりにも眩い。写真を撮らずにはいられなくて、立ち止まっては写真を撮り‥。なかなか前に進めない。
紅葉で大賑わいな樹林帯を抜け、縦走路の最低鞍部(最も低い位置)へ。そこで後ろを振り返る。
あれは、動物の、毛??
柔らかそうな、白くふさふさしたものが、目の前でたくさん揺れている。
満点の、ススキの絨毯だった。
うわぁ…!
静かな山に、感嘆の声が小さく響き渡った。
いつまでも、見ていたい景色だった。
秋はとっても長い。秋を楽しむために、私は秋のある所へいく。そんなスタイルが、今はすっかり定着してしまった。
もとめている体験を、「ないねぇ」と言わずに、自分からもとめに行き、「あるねぇ」と言っちゃう。
それが、日常の中にひとつでもあると、こころ強く、豊かな気持ちになれる気がする。
これは、ある意味「練習」だと思うんだ。
自然のような、大きくて形を捉えづらいものは、たくさんある。感情もそうだし、人間関係も、そう。偶発的に起きるものに、柔軟に対応していく必要がある。
これらにおいて、「ない」を「ある」にすることは、錬金術でもできないかぎり、物理的な創造は困難だ。
でも、「ある」にするために、小さく視点を変えてみたり、小さく行動をしてみたりすると、「ある」世界で生きることができる。
それが、生きやすい世界なのではないだろうか。
自分から歩み寄れば、
あなたの近くにも、私の近くにも、秋はある。
自分から歩み寄れば、生きる世界が変わる。
ちょっと大袈裟な話になってしまったけれど、ホントの話。
さぁ、次は、何を「ないねぇ」から「あるねぇ」にしちゃおうか。
いつも楽しく読んでくださり、ありがとうございます! 書籍の購入や山道具の新調に使わせていただきます。