ゆっけ
僕シリーズ
私シリーズ
短編小説
私はいつも彼を見ている。きまった時間に、きまった場所で、きまった動きをくり返す彼を。 私は、彼のことをほとんど知らない。名前も、学年も、クラスも、誕生日も、声も、趣味も、交友関係も、テストの成績も。顔だってよく知らない。廊下ですれちがっても、きっと気づかないと思う。 ――それでいいの? 満足なの? そんなことを訊く声がある。そういうとき、私はきまってこう返す。 「もちろん」 私が彼のことについて知っているのは、たった三つ。 右利きであること。野球部であ
青地に白抜きの無機物に沿って今日も僕らは進んでく 誰かがお前をせせら笑っても今ではなんとも思わない お前は全然言うこと聞かんしそこいら中にがたもきてるし おまけに死ぬほど金がかかる だからお前と一緒にいる理由を一言で表すとすればそれは執着 愛情も愛着も理想も憧憬もとっくに溶けてドロドロになった
思うように声が出ないときだって歌ってきた 切実だった馬鹿みたいだけどさ 嫌気がさす日もあったけど明くる朝にはうずうずしてる 誰もいなくていい一人でだって気持ちいい 多分これって一種の才能
ブルグミュラーの練習中に ふっと世界が明るくなった まだ見ぬものへの憧れ抱いて 今この瞬間鼻が詰まって冴えない私も 遠い過去に手を振れる 前を向いたらひどく眩しい 目を瞑ったら弱っちい闇
ぎゅっと抱きつき匂いをたしかめ 銀の天使をつかまえる つるっつるに濡れた床をすべるように進んでく 拓いても拓いても明日にはまた元通り 知らないことは知らないままで 冷たい目の奥に光を見たよ 柔らかい耳たぶに噛みついて
君にもらった綺麗な石ころ その正体は瑠璃なんだって 気づくのがあまりに遅すぎたんだ 波涛の白だけ瞼に染み入り 貝殻の音は聞こえない 今となってはあまりに遅いね それでも僕は眠り足りない ひたむきなもんさ
緑色の月青い太陽 あの子はほんとになんでもありだな 僕もおんなじもんだとみんなは にやにやしながら指をさすけど それってつまりは似たもの同士 君を作ったあれやこれやを ほんの少しだけ僕も知ってる 青い鳥とか金色の肌とか そんなとこからはじめよう
漏れ出たあくびの後ろ髪を引っ掴んで もう一度幸せのため息をほおばりたい 弾むベッドに踊り舞う埃が西日に照らされ綺麗 誰も私たちを見ちゃいないよこんなに素敵なことってないね 真っ暗な部屋で交わすおはようの響きがとっても好きでたまらない 真っ暗な明日が私たちを出迎えてくれる間はずっと幸せ
ぱさついた私の青い髪がはらはらと 太陽の光に晒されて踊る 今日は随分と機嫌がいいが それはおそらくあなたのおかげ スピーカーからは昔々にはしゃいで歌った おはこのポップスいい気分 アジビラに溢れて足の踏み場もない 街をスキップしながら進む
横断歩道にモンキチョウ 悲しくなるほどフラフラ飛んでる 地下鉄の駅にも本屋のシャッターにも 寝室の天井にもくすんだ黄色を靡かせる 三百日後の死にたい日の朝 俯きながら歩く私は招待状と巡り会う
白磁に汚泥が飛散する 君はその瞬間を目に焼き付ける 遠い記憶が蘇って潮のように満ちていく 感傷に溺れているその様すら優雅で 僕の思いを継ぎ接ぎにした無菌の布で包みたい 知らず知らず深く深く夢想をしていたその一瞬に 君は思考の回路を断って憐れなオートマタになる 淡くいとけない光を失くしあまねく感情に蓋した君を 心の底から綺麗に思う
また夢を見ている。銀河鉄道の夢だ。 小高い丘の上に立ち、私はそれが来るのを待ち侘びている。 夢の中では、音という音が聞こえない。聴覚が意味を為さなくなった世界で、私は星のない北の空をじっと睨む。すると、ひどく鈍まな流星のような一条の光が、時間をかけてゆっくりとこちらに近づいてくる。夜に溶ける煙を吐き、車輪を空転させながら、無機質な龍のように夜空を南下する銀河鉄道。私は知らず知らず止めていた息をそっと吐き出す。 私はそれに乗ってみたいと思う。けれど、丘を照らすものはなにも
あの日電車の中で初めて会った時のこと 塵一つ寄せつけないほどの厳かさで君は春琴抄を読んでいた 背表紙を清冽に飾るその3文字が瞬く間に特別な意味を持った やがて君と春琴が僕を支配した 谷崎の世界を知って君の言葉を夢想した 寝ても覚めても退廃の色香がまとわりついてくる 世界が色褪せて輪郭を滲ませていくのも悪くない
夜の街をもがきのたうち這いずり回って 気づけば夜光虫が打ち捨てられた冬の海 太陽の色を忘れた瞳が青々しさに震えている 涙と嗚咽は氷塊となり私を静かに凍てつかせる 絶望するための方法は百個くらい知っているけれど 希望の光を拝むにはたった一つの手段しかない