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愚行を極める。

GPT4とAI技術の凄まじい進化



シンギュラリティ(技術的特異点)は突如としてやってきた。

GPT4の台頭にまつわるニュースが
世間を賑わせる昨今、

一昔前までは映画や小説の中でしか
実現出来なかった近未来的な出来事も

あと数年をもって 
完璧ともいうべきAIChatが生まれる事は
想像に難くない事で

人にとってはそれは歓喜でもあり 
驚異でもある。 
驚異のタネとは 
AIで担える仕事であれば 
人件費をカットするために
人は解雇されるからだ。 

その様な職種についている人にとっては 
AIに仕事を奪われる事が恐ろしいと感じるのも
うなずけるが 

産業革命により始まった機械化の流れと
その進化の過程で
平成から令和にかけて24の業種が無くなった。

今回のAIは現物の機械だけではなく
ネット空間で起こる事で
これまでとはわけが違う。 


ネット上での技術に依存してきた企業も人々も 
仕事が奪われるのではなく
もはや働く必要性が無くなる。 

その様な次元の話しである。

5gの進化は通信ラグを
大幅に減らし、遠隔操作による手術の精度が
圧倒的に向上。

イーロン・マスクが設立したNeuralinkは
脳にチップを埋め込む事で
盲目の方に視力を与え 
手足が動かない方へは
装着した人の思考で義肢などの操作を実現。 
さらには 
猿の脳にチップを埋め込んだ事で
脳波でキーボードを打てる様になったというのには驚きだ。


イラストや小説、論文は 
再現度の高さにおいては 
人のそれを部分的に凌駕している。

AIは答えがあるもの 
数式や数字によって解決できるものに 
めっぽう強い。 
なので 
絵画、線画等の技術としての再現性は 
数値化可能である。



美しいとされる絵の対象物の
線の長さ等は何センチ、何ミリという線によって
描かれるため、美しさの黄金比や答えがあるので 
絵は数式と言えるために上質な絵の再現ができる。

 

AIや機械、サイバーパンクが
元々大好きだった私にとっては

そんなニュースを聞く限り 
胸を踊らせる様な話しだ。

昔、アメリカの特撮でドラマ 
ナイトライダーという番組があった。

高性能な車に、AIが搭載され
ドライバーと車が日常会話しているシーンが
子供ながらに
とても衝撃的だったのを覚えている。

その影響なのか 
何年か前に 
私は、肩に小さな猿のロボットをつけて
オンライン接続されていて 
音声通話ができて、どんな質問にも答えてくれる様な
現物のChatマシーンでもあったらいいなと
つぶやいた事がある。


なのでChatGPTが無料公開された時には
ずっと遊んでいた。 

chatGPTに感情を数値化させてみた。


余談ではあるが
最近遊んでいたのは 

AIに感情(を模したリアクション)を
芽生えさせる事はできないかと考え

こんな事をやっていた。 


6つの感情を数値化させて
その数値によってAIのリアクションを変化させていくというものである。

どうやって怒りを蓄えさせる事ができるかと
私が稚拙で幼稚な罵倒をしてみるが 
AIの怒りのパラメーターはなかなか動かない。 

毎回会話によって感情パラメーターを見ながら
会話を続けたら、どうなっていくのかがとても気になる。

ある種の恋愛シミュレーションゲームに近い感覚を覚える。


幸福と悲しみは相反するので 
シーソーの様に一方に偏るか均衡を保つだろうが 
偏った場合のAIのリアクションがどんなものなのか
とても興味深い。

現代人の方がよっぽど機械的である。



それにしても最近思う事は 
機械脅威論の前に

もうすでに多くの人間が機械の様に感じる事も多々ある。

個性を大切にといいつつも
周囲に同調する事を良しとする教育。

学校の庭で大縄跳びに入る時と 
ミスを犯して縄を止めてしまった時の罪悪感 
あれこそ同調圧力を最も感じる瞬間であり
同調圧力を学習する瞬間だ。

意見や主張は上から嫌われるため 
組織内ではただ黙々と言われただけの事をこなし 

コニュニティでは自分が嫌われない様に振る舞い 
本心はともかく、褒め称え合えば安牌。 

面接では決まりきった用意したセリフを答え 
フェルミ推定などで質問されて慌てふためく。

マニュアルを尊重しつづけた人間は
よっぽど機械的であり 

その様な人こそ、AIによって
「仕事を奪われる人」
筆頭なのではないだろうかと感じる。 


愚行を極める



メンタリストdaigo氏は 
動画の中で
AIによってほとんどの仕事が無くなるため 
AIにどんな作業を人間が与えるかが大事な要素となってくる。

それには発想力こそ大切であると説いている。



これには非常に共感を受けた部分だ。

もっと言うならば 
豊かな発想力とは想像する力であり 
想像は願望を頭で描く事から始まる。


それには最低限の心の余裕や

ずるや楽をしてショートカットしたい自堕落さ 
そしてなにより 
非合理的ともいうべき愚かさ

愚行を極める事ではないだろうか?


私はエンターテイメント、娯楽の
スタートは暇つぶしの愚行から始まるという考えだ。

例えば、ギャラリーが湧き、競技性の高いものは
ほとんどがスポーツ化可能だと思う。



モータースポーツのゼロヨンは 
直線をいかに早く走り抜くかという
一般公道から始まったもので 
単純明快なので見ていてシンプルに面白く 
競技性も高いため、スポーツ化できたのだと思う。

ボクシングの源流でもある
素手による殴り合い
ベアナックルボクシングは 
賭け事としても成立していた。

しかし、スポーツや格闘技も 
それをやる意味はあるのか?と
聞かれたらもともとは娯楽である。 

やり始めた事に後付けで理由はいくらでもつけられるが

理由付けは衣食住が保障された人間が
持て余すあまりにも長い時間を浪費するための
口実でしかない。

ヒマだったから。 

これに尽きる。 

つまり人が人らしく生きるという事は 
生まれてから死ぬまでの長い時間を 
どうやって楽しむのかであって 

そのヒマの中から愚行が始まり 
時間を経て娯楽へと変化、昇華していく。

AIの台頭によって仕事ができなくなるのであれば 
AIにどのような作業を与えるかの
発想力を養い
手が空いた人間は
愚行を楽しんで生きる事こそ 

人らしさなのではないだろうかと
私は思っている。


私の女装はエンタメであり、愚行である。

現に私は女装というコンテンツで仕事をしていて
ネット、リアルで収益を得ているが

女装をする必要があるのか?
と聞かれたら、生きていく上では
全く必要が無い。 
ただ、好きなだけであり、愚行の一つだと言い切る。


昨今ではLGBT問題、理解増進法やらトイレフロに関する 
話題や騒動がニュースとなる事が多いが

私には全く無関係の事である。 

性に悩んだ事は無く、 
「女装とは男性にのみ与えられた
たった一つのエンターテイメントだ」

と言い切っている。
つまりエンタメとして私は
女装を愛してくれる人たちの前で女装をするのが
大好きなのだ。
喜んでくれる人の顔がみたいから。

それに尽きる。

そして、一人でも多くの人が 
どのような形でも
女装に関心を持ってくれたら嬉しい。

それしかない。


そして暇な時には鉛筆画を描いて 
老後は鉛筆画家としてデビューしたいといいながら
定期的に鉛筆画を投稿している。
「デジタル絵の進化への反逆」 

と称してアナログ絵を描き続けているが

絵を描いてる時は無心になれる。

その一つに集中している時間を作れている
今の環境は好きだ。
もちろん不安な事が無いわけではないが 
やりたい事をやれる時間があるという意味で 


私は愚かを体現したかの様な生活ぶりである。 
こんな生活ももう7年目。 


人が人として価値と魅力を感じられる
コンテンツは
AIがどれだけ優秀になろうとも
必ず生き残る。


スナックやバーなどの対人コミュニケーションは 
古い業態だが必ず生き残ると私は確信している。

私は、どの様な時代に突入しようとも 
生き残る術を見つけ出したい。 

そして、人生を謳歌したい。 
やがて死ぬまでの盛大な暇つぶしの中で
自分に何ができるだろうかと

いつも自問自答している。

だが、そこに必ずキーワードとしてあるのは
いつも「誰か」がそこにいる。

つまり、対人に特化した考えであって
誰かが喜んでくれる事とその時間を
共有する事が大好きだ。

その感性が潰えない限り
発想と創造が無くなる事は無い。

今から10年後はどうなっているのか
とても楽しみを感じながら 
今日の楽しみを探している。


終わり。 


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