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8月は、亡き父母への思いを込めて平和への願いを書いてみよう

私の平和への思いを書こう。


私は1960年代生まれ。

1970年代に小学生の時に、母から戦争の話を聞かされた。

私の母は1920年代生まれで、第二次世界大戦を思春期で迎えた。

当時、女学生だった母は学徒動員で工場で働いたり、学校の校庭を畑にしてさつまいも作りなどの農作業をしたり、とにかく勉強どころではなかった。

食料も不足し配給制になったこともあり、さつまいもは茎も食べたとのことで、後年小学生の私がねだった焼き芋を頬張る隣で母は、

「もう、あのころ、一生分食べたからね。今はもう、いいわ」

と、苦笑い。


空襲の日は、夜、家で一人でいたら空襲警報がなり、あっという間に焼夷弾が雨の様に降ってきて、あちこち火の手が上がる中、夢中で高台まで走って逃げていった。上から見下ろすと街中が燃えていて、怖くなった。


母の学校は寮もあり、寮生だった友人たちが何人か犠牲になったらしい。


いつも一緒にしゃべったり、笑ったりしていた人が急にいなくなってしまう、それが戦争というもの。



でも戦争は嫌だ、人殺しだ、などとは絶対に口にしてはならなかった。


なぜなら、学校で、近隣で、思想統制の見えない網が張られていたから。





また、母の3人の兄はそれぞれ戦場に向かったが、1人の兄は残念ながらグアム島沖で若い命を落とした。

母はその兄を手先が器用で運動も得意で明るくて、といい年が近かったこともあり、一番慕っていたらしい。


訃報を知った時の母の心の底にしまった嘆きと落胆の想いは想像に難くない。


そんな母だった。
それでも兄嫁や老いた父という家族が身近にいた母は気持ちを共にできたかもしれない。




一方で私の父は終戦時、単身満洲にいて飛行機の製造会社に勤めて、戦闘機等の設計をしたり、新人工員たちに数学や物理を教えていたらしい。

しかし、終戦を迎えて会社は撤収され、ソ連の収容所に入れられたらしい、が、その後の詳しい話はあまりしなかった。

私が幼い頃の、毎日のロシア語らしき掛け声の体操、全然おいしくなかったコウリャンメシことが、わずかに戦争体験を思わせた。

多分、父は詳しく話をするのが苦してたまらないくらいの壮絶な体験をしたのではないかと思う。

捕虜ならば、きつい労働と粗末な食事、
日々疲弊していく肉体、極寒のシベリアで病を得ていく人々を多く目にしたことだろう。

私の父もこの時期の栄養不良が原因か、痩せて胃腸が弱い体質に長年悩まされていた。


終戦以前は、満洲で同僚や先輩、後輩と切磋琢磨し、時には酒席を共にし、未来を語り合っていた父の日常。

それがあっという間に破壊された、
それが戦争だと思う。


では、今の私に何ができるだろうか、

私にはもう残された時間はそう多くはない。

今は、日々のニュースや新聞での平和を脅かす記事に怒りをもつ自分を大切にしようと思う。

そして戦争を体験した人々の一人一人の経験や思いを伝えた話をきいたり、
本を読んだりして、
拙くてもいいから、自分なりに感じたことをまとめて時には発信していこう。








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