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もう素朴ではない君

 計画通り、ニーチェを勉強している。ニヒリズムに陥った人類の救済に向けてニーチェがたどりついた永劫回帰という愛。キリスト教を学んでいるときにも思ったけど、昔の人ってやっぱり生きていてすごく切なかったんだろうな。心細いというか。
 以前2ちゃんねるのまとめで見かけた情報なので正確なところは分からないけれど、昔の人が生涯で得る知識は新聞3枚程度の量だったという。一概に「昔の人」と言ってもそれが中世なのか江戸時代なのか、あるいは近く昭和なのか、それとも遠く旧石器時代なのか、という問題はある。ここでは「服装がいまと明らかに異なり、かつ原始的ではない時代の人」という曖昧な表現で許してもらうとすれば、「生涯で得られる知識が新聞3枚程度の量だった」ことが本当なら、彼らはやっぱり現実の問題について対処のしようがなかったのだ。解決策は啓示のように未知の領域からもたらされるものではなく、持てる知識を振り絞って講じるものなのだから、新聞3枚の情報から解決策なんて見出せるはずがない。ネットを使いこなして古今東西の思想・価値観を漁ることのできる現在ですら正解が分からず迷っている人は多いのだから。
 たいした娯楽はなく、ただ労働だけがあって搾取をされる苦しい人生を生きている意味が分からない。そこで神という概念あるいは存在を知る。「苦しい」というそのことこそが生きる意味なのだと、人生に意味が与えられる。限られた知識の中で、それしかないと信じ、ほかの可能性を捨ててしまえることをおれは羨ましさをもって切なく感じる。なぜ切ないか? 常に疑心暗鬼になって一挙一動に問うことをやめられない俺にとって、物事を疑わないことは「素朴」という性質の象徴だからだ。その素朴さは魔女狩りへと通じる粗暴さも秘めているので、無条件で肯定できるものではないのだけど、批判対象を現代人特有の陰湿でシニカルな視点にのみ絞れば、対比として素朴さはまばゆく輝かしいものになる。

 傷つけてはならないような人の素朴さに触れると、不思議と切ない気持ちになるのはその素朴さが自分からはとうに失われてしまったことを痛感するからか。しかし思えば自分はその素朴さを、それが幼少期から続いているが故に嫌って、意図的に絶ったような気がする。たとえば子供の頃から好きな漫画を集め続けている人は多いかもしれないが、自分にはその感覚が分からない。幼かった頃に好きだった作品に現在でも夢中になっているということは精神的に成長ができていないような気がしてならないのだ。だから、小学生の頃までに好きだったものは今もう手元にない。もちろん嫌いになったわけではない。振り返ったときに「好きだった」とは思うが、集め続けるほどの熱意はない。漫画に限らず、小説も映画も音楽も、いま好きなのは中学以降に見つけたものだ。そもそも中学生の頃も幼いじゃないか、という意見もあるだろうけれど、親やテレビから与えられたのではなく、好きだと思えるものを自力で探し出すようになった思春期には現在の趣味嗜好の土台は形成されていたように感じられるので、自分は中学以前・以後で線引きしている。

自分は黙って、風呂場と便所の境にある三和土の隅に寄せ掛けられた大きな銅の金盥を見詰めた。この金盥は直径二尺以上もあって自分の力で持上るのも困難な位、重くて且大きなものであった。自分は子供の時分からこの金盥を見て、屹度大人の行水を使うものだとばかり想像して、一人嬉しがっていた。金盥は今塵で侘しく汚れていた。低い硝子戸越しには、これも自分の子供時代から忘れ得ない秋海棠が、変らぬ年毎の色を淋しく見せていた。自分はこれ等の前に立って、能く秋先に玄関前の棗を、兄と共に叩き落として食った事を思い出した。自分はまだ青年だけれども、自分の背後には既にこれだけ無邪気な過去がずっと続いている事を発見した時、今昔の比較が自から胸に溢れた。そうしてこれからこの餓鬼大将であった兄と不愉快な言葉を交換して、わが家を出なければならないという変化に想い及んだ。
— 夏目漱石『行人』(新潮文庫 p. 285-286)

 この「一人嬉しがっていた」という部分、これが自分にとっての「素朴」かもしれない。金盥かなだらいは大人でも持ち上げるのが難しいほど重くて大きいものだったが、それを行水で使うものだと勘違いして、大人に憧れる幼心で「一人嬉しがっていた」。この幼心を素朴だと感じて切なく感じるのは自分だけだろうか? この文章において、切なさは後半部に増す。「一人嬉しがっていた」その頃から成長した主人公は「自分はまだ青年だけれども、自分の背後には既にこれだけ無邪気な過去がずっと続いている事を発見」する。いま問題を抱えて家を出なければならなくなった主人公は、この世界にいま突如として出現したのではなく、「無邪気な過去」からひと続きの存在である。現実的な問題に頭を悩ませることの方が多い現在では、無邪気に笑っていた過去は懐かしい。しかし「一人嬉しがっていた」小さな男の子はけして自分と無関係の存在ではない。
 思えば、子供の頃から好きだったものを好きでい続けるのは、「無邪気な過去」からの道筋がはっきりと自分の背後に示されてしまう気がするので、おれは意識的に道を絶ったのだった。現在の自分は汚れている。幼少期の自分の延長線上にそんな汚れた自分がいるのは心苦しい。だから幼少期の素朴さが汚れないように、子供の頃に好きだったものへの興味をなくして決別した。身体的には無関係ではいられないのだとしても、精神的には無関係でいようと線を引いた。

 だが、過去と現在とを分断した境界の向こうにある素朴さにこだわっている自分が一番素朴だという考え方もある。「一度きりの人生はやったもん勝ち」をスローガンにみんな幼少期の頃の自分なんて気にしていないように見える。おれは意識的に道を絶ったつもりで実のところ子供だった自分のことが気掛かりでならず、なにをするにしても、自分なんかがこんなことをしていいんだろうかと躊躇ためらってしまう。自分が煙草なんて吸っていいんだろうか? 自分がネットで人と知り合っていいんだろうか? お酒もいまだに飲んでいて違和感が抜けない。
「やったもん勝ち」という考え方はすなわち過去の自分を顧みないということで、反省の習慣をなくしたその人は他人の存在も気にしなくなるだろう。今の自分さえ良ければなんでもいいのだ。その発想から出発したこの連鎖は時代を暴力的にさかのぼり、限られた情報量で心細く生きていた人々にまで届いて彼らの生を侮蔑的に笑うだろう。

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