見出し画像

とぼとぼと戻る道

 新井英樹の『宮本から君へ』を読んだのは中学の頃だったように思う。その完全版の第四巻、つまりは物語の終盤に「人の一生には、これまでの日々はこの瞬間のためにあったと感じさせる出来事があり、人はその一瞬のために生きている」という台詞があった。それを読んでから僕は、それではその瞬間は自分の人生にいつ訪れるのだろう、と待ちわびるようにして生きてきた。

 そしていま、なんの根拠もなく、ただ「今年も終わる」という年末の寂しさのみによって考えるのは、もしかすると、その一瞬はこれまでの生の時間のうちにとうに起きており、自分はそれと気付かずに見過ごしてしまったのではないか、ということだ。だからといって思い当たる出来事が、振り返ったところで記憶にあるわけではないのだけれど……。

 なぜこういう発想に至るのかといえば、それはきっと2019年が最悪の一年だったから。だから来年は良い年になってくれることを祈りたいが、現実的に考えれば2020年は今年よりも大変だろう。未来を見据えたときに明るい兆しが見えないからこそ、この先の人生に歓喜の一瞬が訪れることはない、と考える。『宮本から君へ』の台詞の通りに、そうした瞬間が人生に一度は訪れるのであれば、その一瞬はもうすでに過ぎ去っている計算になる。

 仮に、ああまさしくあの瞬間が、とその出来事を特定できたとしても、今後僕はどう生きていくべきか? 過去にあったその瞬間をすがるように思い懐かしみ、残りの人生は消化試合として生きるしかないのか?

 そんなはずはない、と言いたいが、いまは強く否定するための根拠を持たない。

***

 この時期、街行く人はみな年末の冷たい空気のなかでしんみりと今年一年を振り返っている。信号を待っているときなど、向かいの人の頭の中は「今年も終わる」ということでいっぱいなんだと考えると面白い。かく言う自分もそうだ。

 2019年を振り返りながら、こんなことを考えた。

 はっきり言えば、世の中には嫌なものが多い。自分にとって苦手なものが多い。

 それでも、嫌なものや苦手なものが多いこの世の中で、毎年好きなものが確実に増えている。少しずつとはいえ、今年の自分は去年の自分よりも好きなものが増えている。それはその分だけこの世界を好きになった、ということではないのか。この世界をやっぱり肯定したい、という気持ちが自分のどこかにきっとある。

 漫画でいえば、今年の上半期はねこぢるを、下半期は山本直樹を好きになった。

 ただ、「好きになった台詞」という部門で言うならば、福本伸行の『最強伝説 黒沢』にぐっとくるものがあった。

 良かれと思ってやったことがすべて裏目に出てしまう悲惨な四十男、黒沢は訳あって暴走族にボコボコに痛めつけられる。

 その痛みの中で、黒沢は思う。

 世の中は強大で、その強大さゆえに胸の中はいつも無力感でいっぱいだった。思春期の頃にはもう自分の限度がすっかり分かっていた。大人になってからはじわじわと圧死していくような毎日だった。それでも、夢はあった。夢だけはあった。そして、こんな自分でも夢を持っているというその事実が悲しかった、と。

 四十の男が胸の中を無力感でいっぱいにして生きている、というのがいい。夢のあることが生への支えになるのではない、というのがいい。

 自分が初めて経験した挫折は、塾をやめた小学生時代のあのときかもしれない。だけど、それからもたびたびあった挫折の経験そのものに心を折られたというよりは、小さな出来事の積み重ねが僕の心を折ったのだと思う。世界を肯定したい気持ちは確かにあるが、自分はこの世界に対して大きな挫折感を抱いている。

 そんなことを考える年の瀬。やっぱり来年は良い一年であってほしい。そのために僕も頑張るから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?