「こんな時代やから」
『MANRIKI』を観た。
『さんまのお笑い向上委員会』で「お笑い楽勝や。たった21年でこの席に座れるから」と言ってひな壇の全員から「長い長い」と総ツッコミをうけるシーンを見て、永野が好きになった。地下でも評価されていたと聞くが、売れるまでの21年という歳月は泣きたくなる長さだっただろう。それを卑屈にではなく明るくてポップな笑いに転化できる永野は人間の明るい側面、暗い側面、その両方を知る人、と思う。
その永野が脚本を書き、デヴィッド・リンチとも比較されている『MANRIKI』は、公開前から気になっていた作品だった。ただ、予告を見る限りではB級スプラッタになりそうな雰囲気もわずかにあり、映画館でなくレンタルでもいいか、という気持ちがないわけではなかった。ところが、12月頭に驚くほど順調に仕事がこなせて、しかも災難がふりかかってこない日があったので、「18:40の上映に間に合うのだから行ってしまえ」と勢いで観に行った。そしたら『MANRIKI』は、これを最高と言えなかったら他になにも最高とは評せない、そんな映画だった。
売れないモデルは自分の顔が大きいと思い込んでいて、街を歩いていてもみんなが自分を指差して「顔がデカい」と笑っている気がする。そこでたまたま見つけた美容クリニックで小顔矯正施術を希望したところ、案内された部屋には万力が置かれており、その間に顔を置けと言われる……というあらすじのこの映画では「美」がテーマとなる。
みんな、あの人が可愛いかっこいいキレイと簡単に言っているけども、本当の美しさとはなんなのか?
施術を受けたあと、売れないモデルは満足そうに「気持ちまで明るくなった」と語っていたのに、整顔師に施術失敗の疑いを持ち出してくるのは母親と連絡をとってからなのだ。つまり、他人からの評価をうけてからでないと自分の姿が見えない。あるいは、他人の意見が絶対なので、なにか言われるとすぐに自分の意見がぐらつく。鏡を見れば明らかに分かる事実を認識できないのは目が曇っているからで、そしてそれは己の内面を見る目が磨かれていないということでもある。
『MANRIKI』では始めから終わりまで異常な世界が描かれるが、過剰なまでの異常を描ききらなければ映し出せないものがある。僕はこれまでに観た映画の中で一番美しい作品はアンジェイ・ズラウスキーの『ポゼッション』だと思っていて、それは、取り憑かれた妻をそれでも理解しようとする夫の葛藤や戸惑いが美しいから。そして、不意に狂気から離されたように垣間見せる、妻のある瞬間の泣き顔が苦しいほどに美しいから。『MANRIKI』でも蛍のような紫色の光が舞う中、永野が静かに語り出すシーンが美しかった。
あのとき僕は、この異常な世界で、唯一の正しさをもった言葉が発せられている、と思った。
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Cinema Art Onlineのインタビューで斎藤工がこんなことを言っていた。
あとは、(制作会社や配給会社がなかなか決まらなかったことで、)今日本で作ってはいけない映画と烙印を押されたことが、僕は最大の看板かなと思う。
(引用元:https://cinema.u-cs.jp/interview/manriki_saitoh-nagano/4/)
パチンコ屋への場面転換や逃走中のSWAYの息遣いの写し方を見れば、『MANRIKI』は単に物語を進めるための映像を撮っているのではなく、音や画角までこだわり抜いた作品だと分かる。そして、シリアスな展開でもどこかクソ真面目すぎないのは、永野の笑いが肩の力を抜かせてくれるから。それはたとえば、美人局の後の斎藤工とSWAYのやりとり。
ともすればB級スプラッタにもなりえたこの作品を、そこに陥らせず、カルト的に惹きつける内容にまで仕上げたのは作り手の意地だろう。少なくとも一度は自分たちを拒絶した商業主義への抵抗だろう。
観てよかった。
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