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ほかには頼れぬ気付きを

 家に着き、鞄を下ろして「ちょっとつらいかも」と静かに思う。ひとりになると自然にため息をついていて、そのため息によって多少なりとも何かから解放された気になってしまうことをむなしく感じる。というか、ひとりになった途端に身体の力が抜けて、こぼすのではなく押し出すようにため息をつかなければならないその状況自体にもうむなしさがあった。それからまた、ちょっとつらいかもしれない、と考え、玄関から暗い部屋に向かって腕を伸ばし、スイッチの位置をまさぐりもせずに感覚で当てて明かりをつける。

 数ヶ月前から水筒を持ち運ぶのをやめていた。朝に小さな水筒に水を注ぎ、蓋を回して閉め、帰りにはもう空っぽになっているその水筒の蓋を開け、洗い、明日も持ち運べるように乾かすそれら一連の行為が悲しさを誘うので。こんなことしていてなんになる、とやけくその気分がせりあがってくるのは準備や片づけが面倒だからではなかった。水筒を持ち運ぶための用意をひとつひとつ積み重ねていくその感じが、ここのところ僕の考えている社会人としての幸せのあり方に似通っていた、それがどうにも苦しかった。平日の時間のほとんどを仕事に縛られている僕たちはどうやら隙間隙間に小さな喜びを見つけるしかないらしく、だけどそうして耐え難い苦痛を仕方のないものとして受け入れ、苦しいなかでも楽しいことを見つけていこうという前向きな姿勢は僕にはひどく惨めなものに感じられるのだった。小さな喜びを拾い集める行為ほど惨めなものはない。たとえば労働を頑張るために自分自身へのご褒美を用意することは、このすでに惨めな自分をさらなる惨めな場所へと突き落とす行為じゃないか? それで水筒を持ち運ぶのをやめていた。しかしこうして水筒の準備から生きていくことの悲しみを見出すのは考えの進め方として間違っていて、これを読んでいる人には筋道の立っていない論理の飛躍としか受け取られないのじゃないか?

 些細な幸せなどいらなかった。そんなものを得るくらいなら徹底的な不幸がほしかった。

 中学の頃からだろうか、絶大な光に包まれて何もかもが大丈夫になるような救いを求めていた。そして、僕はそういうかたちの救済を、大学を卒業したあとも信じていたのだった。しかし、悲しいことに、この世界にはそのような救済は用意されていないのだと分かってはいた。信じることと理解することは別なのだとも。

 人類がある行為を始めた瞬間をふと知りたくなって、勉強のひとつとしてユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだ。求めていたことは記されていなかったけれど、思いがけない収穫はあった。

 学者のなかには、人間の生化学的特性を、酷暑になろうと吹雪が来ようと室温を一定に保つ空調システムになぞらえる人もいる。状況によって、室温は一時的に変化するが、空調システムは必ず室温をもとの設定温度に戻すのだ。
 設定温度が二五度の空調システムもあれば、二〇度のものもある。人間の幸福度調節システムの設定も、一人ひとり異なる。幸福度に一~一〇の段階があるとすると、陽気な生化学システムを生まれ持ち、その気分がレベル六~一〇の間で揺れ動き、時とともにレベル八に落ち着く人もいる。こうした人は、人を疎外する大都会で暮らしていても、株式市場の暴落で一文無しになっても、糖尿病の診断を受けても、十分に幸せでいられる。一方、運悪く陰鬱な生化学システムを生まれ持つ人もいて、その気分はレベル三~七の間を揺れ動き、レベル五に落ち着く。このような不幸な人は、緊密なコミュニティの支援を受けていても、宝くじで何百万ドルも手に入れても、オリンピック選手のように健康であっても、気分は沈んだままだ。実際、こうしたふさぎ込みがちな人は、午前中に五〇〇〇万ドルを手に入れ、昼時にエイズと癌の治療法を発見し、午後にはイスラエルとパレスティナの和平を実現した上、夕刻には長年生き別れになっていた子供と再会したとしても、レベル七以上の幸福感を味わうことができない。その人の脳はそもそも、何が起こっても心が浮き立つようにはできていないのだ。
— ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(下巻)』(河出書房新社 p. 227-228)

 僕は十の幸福を手に入れたいとずっと願っていたけども、そもそも自分は三程度の喜びしか得られないし、感じ取ることもできないのではないのか? だが、悲しみを感じ取ることは誰より長けているのではないか?

自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
— 太宰治『人間失格』(新潮文庫 p. 12)

 顔で笑って心で泣いているような人が昔から好きで、ほかの人間はそう捉えないだろうけど自分は「そのような人」として捉えた人のゲーム配信を見ていたとき、引っかかった言葉があった。彼女がプレイしていたのは『Jump King』といういわゆる鬼畜ゲー。ゲームの内容はシンプルで、足場を飛び移りながら真上に登っていくというものなのだが、唯一の操作であるジャンプの強弱のつけかたが難しいらしく、足場を踏みそこねてしまうと落下し、たちまちのうちにスタート地点に戻ってしまう。制限時間内でどれだけ高くまで登れるかを競う大会がTwitchでひらかれ、彼女はそこに呼ばれて参加していたのだった。

 それで、「一時間経ってもまだスタート地点にいる」とリスナーに笑われながら彼女はプレイし続け、彼女自身もにこにこと笑っていたのだけど、配信の後半に一回だけ「ほんとはちょっとつらいです」と言った。「ちょっとだけね」つぶやくような言い方だったので、僕はそれを彼女の本音だと思った。と同時に、この「ちょっと」という言葉に引っかかりを覚えてもいた。

 僕自身も「つらい」ではなく、「ちょっとつらい」という言い方をしてしまう。そうでないと誰かに咎められるような気がするのだ。「もっとつらい思いしてる人はいるよ?」「みんなつらいから。つらいのは君だけじゃないから」と。そういうことを言ってくる人が周りに必ずいた。だから気付けば、つらいと感じたときに「ちょっとつらい」だとか「つらいかもしれない」みたいな濁した言い方を自然とするようになっていて、しかも驚くのは誰からも関与されることのない頭の中ですら「ちょっとつらいかもしれない」と考えている。いつの間にか本当に本当の本音をどこにも吐き出せなくなっていた。自分の中にも。ひとりの部屋でも。

 それは小さい頃だと思うけども、仮に言いたいことを言えて、素直に感情をあらわせた自分が過去にいたとして、しかし他人の「つらいのはお前だけじゃない」という注意によって傷つけられて物怖じしてしまったその自分は、いま僕の心の奥の、何千枚もの扉を閉めた先の部屋に幽閉されている。どうすればその幽閉された自分を救い出せるか? 思うに、救出劇は大掛かりでなくていい。救いになるのは、ふとした自分の気付きなのだ。

 精神的なねじれと肉体的な痛みを結びつけるのはそれこそ論理の飛躍かもしれないが、最近そのような気付きがあった。

 高校にバイトを始めてから痛むようになった左の首筋。氷をあてても湿布を貼っても痛みはとれず、それどころか時間が経つにつれて徐々に場所を移して頭痛に変わる。原因は分からなかったが、痛むのはバイト後に限ってのことだったから、厨房独特の熱気や臭気、調理中の姿勢が首というか身体に負担をかけているのだろうと推測できた。そのためにわざわざバイトを変えるのも面倒だったし、我慢すればいいかと考えていたら痛みが慢性化して、バイトのない日でも痛むようになった。病院で診てもらっても、体操やマッサージをしてみても良くならない。だからもうこの痛みと付き合っていくしかないのだとここ数年は受け入れていたのだけど、ふとした思いつきで首をすこし左に傾けて過ごすようにしてみたらたった数時間で嘘のように痛みがなくなった。もともと僕は首を右に傾ける癖があったので常に左側の首筋が張っていたらしく、だから意識的に左に傾ければ、首はまっすぐになる、というわけだった。こんなこと誰からも教えてもらえなかった。いや、こんなこと誰かから教えてもらえるはずがない。自分で気付くしかなかった。というか、どんな問題も真の解決策はいつだって自分で気付くしかない。

 こんなことで治るなんて、いまとなっては氷も湿布も通院も体操もマッサージも、これまで試してきたものが全部無駄に感じられるけど、そのすべてが無駄だったとか、間違いだったとかではなく、この正解に自分でたどり着くために必要な回り道だった、と考えてみる。たとえそれが「姿勢は良くすべき」という単純極まりない答えだったとしても。自分にはその単純な答えを理解するためにこれまでに経た過程のすべてが必要だった。

 いまつらいとしか感じられない日々の歩みが、そのような気付きのための長い遠回りだと信じて、祈りを込めてここに記す。ああ、無駄足だったと、結局はどこにもたどり着けずに、出口のない闇夜を彷徨するのが僕の運命だったとしても。


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