再逆再生の価値転換

　そんな機会などついぞ来なかったが、大学時代、好きな映画監督は誰かと聞かれたら、用意していた答えがギャスパー・ノエだった。しかし、彼の作品をすべて無条件に好いていたかと言うとそうではなく、過剰なまでの性と暴力とドラッグに戸惑い畏れ魅了されつつ、はたしてこれらの作品を人として好きだと断言してよいものか判断を下せずにいた。そして中でもドギツくけして他者に勧められない作品が『アレックス』だった。
『アレックス』では、モニカ・ベルッチ演じるアレックスの身に起きた一夜の悲劇が、時系列を反対に入れ替える手法、つまり逆再生でストーリーが語られる。
　10月末、その時系列を正した『アレックス STRAIGHT CUT』が公開されたと知り、観る気分ではないと思いつつも、会社の帰りに新宿武蔵野館に立ち寄った。
『アレックス』も『アレックス STRAIGHT CUT』も、おそらくもう二度と観ることはない。あの不快で苛烈な衝撃を、繰り返し観ることで薄めてしまいたくはないから。が、やがては細部を忘れてしまうだろうこの作品のことを記録するために、ここに思いを書き残したい。紹介するためでなく、自分本位に。

　両映画のエピソードを簡単にまとめると、下記のようになる。

『アレックス』（2003年公開版）から観た場合
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ゲイクラブ "Rectum” 到着。
ピエールに止められながらもマルキュスは暴行犯・テニアを捜す。
その荒々しい捜し方からマルキュスは男と喧嘩になり、右腕をへし折られる。
ゲイたちに囲まれレイプされそうになったところをピエールが消火器の底面で男の顔を叩き潰して助ける。
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マルキュスたちは地下通路に落ちていた身分証をもとにオカマたちに情報を聞き回り、
暴行犯がゲイクラブ "Rectum” の常連客・テニアであることを知る。
マルキュスはタクシーを強奪し、ピエールとともに "Rectum” へ向かう。
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事情聴取を受けたあと放心して立ち尽くしていた
マルキュスとピエールに男二人組が復讐を提案する。
犯人を牢屋にブチ込むだけでいいのか、と。
お前たちは身なりがいい、金を払ってくれたら復讐を手伝ってやる、
地下通路でハンドバッグを拾ったんだ、と。
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パーティー会場から出たマルキュス、
救急車に担ぎ込まれるアレックスを目撃。
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帰路についたアレックスが地下通路でテニアに暴行を受ける。
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パーティー会場に到着。
マルキュスはドラッグでハイになり、
ピエールは踊るアレックスに見惚れる。
マルキュスの陽気っぷりに呆れたアレックスは、
言い争いをしたあと帰り支度を始める。
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マルキュス、アレックスとピエール、
性に関する馬鹿話をしながらパーティー会場に向かう。
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マルキュスが酒を買いに家を出たあと、
アレックスは妊娠検査薬を使い、陽性反応が出たのを喜ぶ。
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昨夜の続きのように裸体で抱き合ったまま目覚めたマルキュスとアレックス。
アレックスは奇妙な夢を見たと言う。
自分が歩いていた赤いトンネルが突然ふたつに裂けたのだと。
そして、アレックスは運命論を説く。
未来に起きることはあらかじめ決まっているらしい、と。
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『アレックス STRAIGHT CUT』から観た場合

　時間軸に沿って物語が展開される『アレックス STRAIGHT CUT』の鑑賞後、本来は整理されるはずの頭はむしろ揺さぶられていた。『アレックス STRAIGHT CUT』では逆再生の逆再生による価値転換が起きていたのだ。
　それはたとえば、復讐を提案してきた男の台詞。
「自分の身に起こるまでは他人事だ」
『アレックス』では胸に引っかからなかったこの台詞だった。しかし、今回は、「あ……」という電撃的な自覚とともに突き刺さってきた。
　今この劇場に『アレックス STRAIGHT CUT』を観に来ている人は全員『アレックス』を観ているのである。アレックスの身に何が起きたのか知っていながら、わざわざ観に来ているのである。頭を過ぎったのは、ミヒャエル・ハネケが『ファニーゲーム』で揶揄した観客の暴力性への飢え。胸クソ悪い暴力も「自分の身に起こるまでは他人事だ」。というか、恐れず言い切ってしまえば娯楽ですらある。

　逆再生の逆再生により、見過ごしていた描写に新たな意味が生まれてくる。それは、すでに後の展開を知っている客が先走りつつも物語の筋をたどりながら観るからで、たとえるなら店や看板を目印にして帰るもどり道のほうが余裕があるのと似る。一度来た道は街のいろんなところに目が向く。
『アレックス』では、執拗なまでに男の顔を消火器で叩き続ける怒涛の幕開けで観客はさっと身を引き締められ、緊張する。ひとりの人間をここまで怒り狂わせた事件とはなにか？　アレックスの悲劇に焦点があたる。しかし、『アレックス STRAIGHT CUT』が語るのはマルキュスとピエールの無念だ。俺は『アレックス』を観たときには気付かなかったのだが、ピエールに顔面を叩き潰された男は暴行犯・テリアではなかった。マルキュスとピエールは復讐を果たせていないのだ。彼女を犯され傷つけられ復讐をしにくるも、喧嘩に破れて右腕を折られた挙げ句レイプされそうになり、しかも暴行を加えた男・テリアは無傷という何段階もの無念。それはもはや、どうしようもない現実を絶え間なく突きつけてくるこの世界への大きな挫折と言っていい。

　不思議なのは、『アレックス』ではマルキュスと喧嘩をした男が暴行犯なのだと初見では誤解するように仕組まれていること。テリアが私刑から免れていたと気付けなかったのは単なる俺の不注意ではないと思う。罰されるべきテリアが無傷だったというのは『アレックス STRAIGHT CUT』では衝撃的な事実として映画の終わりに明かされるが、この乱闘のシーンが映画冒頭に据えられている『アレックス』では、観客は一瞬映った男が暴行犯であると知り得ないため、たいした意味が与えられない。それはどういうわけなのか。アレックスに暴行を加えたのが誰であろうと、悲劇は悲劇に変わりないということかもしれない。

「終わりだと思ったか？」「顔がいいからこの世界はお前のものか？」
　そう言ってアレックスを壊し続けたテリア。そのテリアの、消火器を置いたピエールと顔がひしゃげて跡形もなくなった男の死体を見比べる表情は、スクリーンに映し出されるのは一瞬とはいえ、脳裏に焼き付く。判断がつかないのだ、その表情の意味するところが。一歩間違えていれば自分がこういう目に遭っていたかもしれなかったと危機を逃れて安堵しているかのような、あるいは異常な殺され方に魅惑され羨ましがっているかのような表情で、思考・感情が汲み取れない。分からない。理解できない。

　この世界には理解しがたいものがある。というか理解できるもののほうが少ないのだけれど、この世界には徹底的に自分と無縁で理解しがたいものが確かにある。自分がギャスパー・ノエが好きなのは、その世界観が自分とは徹底的に無縁なものだからなのかもしれない。
　凄惨な暴力も、顔が潰れていく男を無感情で見下ろすゲイたちの異常性も、その対極として描かれる美しい性愛も。全部自分とは無縁だ。無縁だから安心する、というのではない。それがいかに過剰極端のエログロに満ちたものであっても、自分とは無縁の世界がある、とひとつ認めることは、身近な場所にある無縁の世界の存在もまた認めることになる。俺はいまいるこの世界に住まうことしかできない、この世界のほかにどこにも行くことはできない。いま生きている現実以外、全部無縁の現実だ。それに気付く。

　それでも人は無縁の世界にも繋がりを求める。
　殴り倒され立ち上がることも抵抗することもできず右腕を折られたマルキュスを見下ろす視点で眺めながら、俺は傷ついていた。あのときマルキュスの周りを渦巻いていたのは性的な歓喜だ。怒りも悲しみも誰かの性的興奮の材料として回収されてしまう。うずくまるマルキュスに俺はこじつけや勘違いでしかない共感を覚えていた。奮起しても、自分よりも力が強くしかも真剣ではない存在に邪魔をされ、結局は心を折られる。俺はこの世界に生きる俺自身をこのような姿としてとらえていたのだった。どんな世界にも混じれず、どこもかしこも自分とは無縁だ、とただ縮こまってうずくまるしかない、それが心象風景としての俺だった。