写真_2013-01-18_15_37_59のコピー

涙さしぐみかへりきぬ

Trent: Duncan! On a scale of 1 to 10, what do you think you are? [no answer] What... what don't you know? How you see yourself? You don't have any opinion? [no response from Duncan] I'm just asking. Pick any number, scale of one to ten. Just shout it out. Just say a number.
Duncan: [reluctantly] A six.
Trent: A what?
Duncan: A six!
Trent: I think you're a three.
(引用元:https://en.wikiquote.org/wiki/The_Way_Way_Back)

『プールサイド・デイズ』の冒頭のシーン。

 別荘に向かう車の中で、主人公は母親の新しい恋人トレントに「お前は自分自身を何点だと思ってる?」と聞かれる。「1から10で自己評価してみろ」

 しぶしぶ「6くらい」と答えると、「お前は、おれから見て3だと思う」と言われる。

***

 ダメなことに慣れた、と考える帰り道だった。

 このnoteもそうだけど、自分のやっていることは誰かから褒められるわけでもなく、けなされるわけでもなく、ただ空振りの感覚だけがつのる孤独な作業だ。正しい方向に進んでいるかは分からず、これでいいんだよな、とただ己の予感を頼りにやっていくしかない。足元を照らす灯火の心もとなさは自分に対する自信のなさそのままで、いつか後悔するときが来るとは思いながらも前におそるおそる歩み続けなければならないのだとしたら、この行程はあまりにも長い。

 基本的にフィードバックは得られないものと腹をくくって人は生きていかなくてはいけないんだろうと思う。自分がダメなことは充分に分かったから、いったいどこがダメなのか教えてほしいと“その人”に問いかけたい気分ではあるが。

 過去を振り返ると、やっぱり自分は人として肯定されてこなかった。いや、肯定されることはあったが、それを自意識がねじ曲げた。今よりも傷つきやすかったあの時期、もっと素直に人の言葉を受け取ることはできなかったか。「自分自身について褒められても『そんなわけないだろ』って否定してしまうけれど、間接的に、自分の作ったものについて褒められると素直に喜べる」と言っていたのはたしか10代の頃のシバノソウで、すごくいい言葉だと思う。

 自分が言われて一番嬉しかった言葉はなんだろうと考えたときに思い当たるのは大学三年の学祭のとき。次のバンドの演奏のためにステージ上で準備をしていたら肩を叩かれ、振り返ると「いい音出してるから頑張って」と声をかけられた。自分よりも二回りも年上であろう、知らない人である。高校三年の12月に始めたベースは人から笑われることもあったから、そう言ってくれたことがすごく嬉しかった。その言葉自体に、というよりは、わざわざ感想を伝えてくれたその気持ちに感動した。一生会わない僕に対して、あの人は感想を言っても言わなくてもどちらでもよかった、帰り道に「あのベースよかったな」と振り返ることもなくその日のうちには忘れてしまうようなそんな感想を伝える必要はなかった。だけど、あの人は僕に伝えることを選んだ。伝える必要があると思って、自分の感じたことを僕に教えてくれた。その気持ちが嬉しかった。

 この前、自分と社会人歴が同年の他社営業の女の子が明るく頑張っているのを見て、みんなもっと褒められたらいいのになあと考えた。日々の労働で大変なはずなのに、その疲れを見せないどころか明るくふるまえるなんてすごいことだ。だけど彼女がその点で褒められることはないだろう。これは僕に限らず、フィードバックがなく自己採点をするしかないという状況下では、人は自分自身にマイナスの評価をつけがちで、だから次第次第に気持ちがめげていく。学校に通ったり社会に出て働いたり、そのコミュニティにおける人間関係ですら疲弊するのに、そこに向かうまでの道や電車でも見知らぬ人に傷つけられることは多い。そんな摩耗する毎日を生きている僕たちは偉い。ときどき「そんなことは偉くもなんともない、当たり前だ」と吐き捨ててくる人がいるけれど、褒め言葉は数に限りがあるものではないのだから、それは要らない厳しさだ。それに、褒められるべきところで「偉くもなんともない、当たり前だ」と言われ続けてきた結果が、この劣等感を抱いて生きている人の多い現状だろう。

 もっと人は褒められるべきと考えているからか、頻繁に自虐を言う人が苦手だったりする。「頭悪いからさ」「ただでさえ役に立ってないのに」など。そんなことを言われたら、こちらに「はい、そうですよね」と返す選択肢はありえないのだから(だいたい、こっちは本当に相手を頭が悪いとも役に立っていないとも感じていない)、「いや、そんなことないですよ」と訂正を入れてから褒め言葉を付け足す必要が出てくる。自虐を言うことで、本来はなかなか言ってもらえない褒め言葉をこちらから引き出そうとしてくるのは手口としてズルい。無理矢理に言葉を引き出される感覚が好きではないし、褒め言葉は不意に言ってもらえるからこそ嬉しいものだと思うので、高校の頃からだろうか、僕はいつからか自虐を言うことをしなくなった。

 ぼくは考えた。ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。
 — 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』(河出文庫)

 僕の生において、意志的に《しなかった》こと。それは《できなかった》こととは意味合いが違うはず。

 その言葉を使えば楽になるのだろうけれど、言わないように決めている言葉がいくつかある。それらの言葉に頼らずに生きてきた、いつかそのことが自分の支えになるのではないかと、確信したいがやっぱり心もとない気持ちで密かに強く信じている。


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