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非説明的な光

 次にどの作品を観ることになるかは実際に導かれてみるまで分からないもので、『消えた 16mm フィルム』を観ているときは自分が一度は苦手意識を持った監督、テレンス・マリックの作品『トゥ・ザ・ワンダー』を観ることになるとは思わなかった。

『消えた 16mm フィルム』は監督のサンディ・タンが 18 歳のときに撮った映画とそのフィルムを盗み去った男について回想するドキュメンタリー。そのなかでサンディ・タンが影響を受けた作品として『天才マックスの世界』が出てくる。

 ウェス・アンダーソンの作品はいくつか観ていたけれど、どれも「いい映画」だが「心に迫って食い込むような映画ではない」という印象だった。だから『天才マックスの世界』の高評は知りつつ、題名の微妙さ(原題は "Rushmore" なので、これは邦題の考案者が悪い)もあって、観る機会をもたずにいた。が、『消えた 16mm フィルム』で『ゴースト・ワールド』と並べて紹介されていたために興味がわいて観てみると、実際に『天才マックスの世界』は男版『ゴースト・ワールド』というべきものだった。『ゴースト・ワールド』は中学の時に観て好きになった映画のひとつだ。

 ここからどうやって『トゥ・ザ・ワンダー』につながるかというと、『天才マックスの世界』にビル・マーレイがプールに飛び込むシーンがある。青い水中に沈み、考え事をするビル・マーレイ。そのシーンからすぐさま連想したのはダスティン・ホフマン主演の『卒業』だった。個人的な実感として、外国映画で悩める人がプールに飛び込んで考え事をするのは、潜水服を着て銛を握った主人公がプールの底で呆然とするシーンが印象的な『卒業』が原点なのではないかと思っているのだけれど、やはりネット上に似た感想を抱いている人はほかにもいた。鑑賞後に Tumblr で『天才マックスの世界』を検索していると、『卒業』を筆頭にして「プールでの考え事」シーンをまとめている人がいた。そしてそのリストのなかに『トゥ・ザ・ワンダー』があったのだ。

『トゥ・ザ・ワンダー』の冒頭では男女の出会いが愛と幸福感にあふれる映像で描かれる。楽園を地上に下ろしたかのようなきらびやかな光景が、まばたきの間にも切り替わっている短さで移ろいゆく。そして、悲しみもまた同じ速度で描かれる。

 短い映像をつなぎ合わせて話を進める手法は『ツリー・オブ・ライフ』でも同じだった。切り替わる映像の速度は、心地よいリズムではなくむしろ早すぎるくらいで、しかし美しいのでそれを追いかけることは苦ではない。だが苦ではないということが実は罠で、そのひらめく光を追いかけた先にはさっきまで幸福そうだった誰かが泣き崩れている。不意にその場面に出くわすために具体的な悲しみの理由が分からず、この人はなぜ泣いているのだろうとこちらは困惑する。喧嘩をしたのか、浮気をされたのか。推測はできるが、映画を観ていてもその理由ははっきりと説明されない。

『トゥ・ザ・ワンダー』を観ながら、これじゃあ分からない、と思った。寄り添うきっかけがないので、観ている者にとって登場人物の悲しみは永遠に無縁の位置にある。だから中盤まで退屈していたが、主人公とレイチェル・マクアダムス演じるジェーンとの愛が終わったあとだったか、もしかしたらテレンス・マリックはあえて説明を避けているのではないかと思いついた。テレンス・マリックが撮りたいのは悲しみそのもので、悲しみにいたるまでの経緯についてはそもそも語る気がない。なぜなら事実はいつだってくだらないものだからだ。だとしたら納得がいくというか、むしろ僕の好きな語り口なんじゃないか。感情こそが大切なのだ。少数派の意見に違いないだろうけど、僕は感情論を肯定する。

 例えになるかは分からないが、就活の説明会はどれも退屈だった。なぜならあれは理論側だ。話し手が誰であろうと資料さえあれば同じ説明ができる。資料の内容が絶対で、話し手の存在は軽視されている。話し手その人の個性が入り込む余地のない話に面白さを感じられるわけがない。だから僕は就活の説明会を退屈だと感じていた自分自身を肯定したい。存在の消失してしまった話し手に対し、そこにはまぎれもなく退屈さを感じている「自分」がいるからだ。「説明会に面白さは必要ない」と言う人はすでに理論側に吸収されてしまっている。

 しかし『トゥ・ザ・ワンダー』のレイチェル・マクアダムスの美しさにはすごいものがあった。もうこの映画は観ることはないだろうし、いつかは内容も忘れてしまうだろうけれど、あの美しさは記憶に留めておきたいと願うほどに。日々の疲れや悲しみのために弱々しげにしかひらかれない目で無理に笑う彼女の立ち姿は寂しかった。冬景色が美しいのはきっとそこに寂しさがあるからで、そういう意味で寂しさをまとう彼女は美しい。なにも外的な美醜から美しいと判断しているのではない、寂しさを感じていまここに生きる人の魂には美しさがある。そしてレイチェル・マクアダムスの目は、このように悲しい思いをして生きている人がこの世界にどこかにいるという予感を伴って切なく光っていた。


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