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「ミドリの森」4 ナコ2


「あなたのパートナーは、正直、おすすめできない方だとわたしは思います」

婦人科の年配の女医は、わたしの顔を見ながらそう言った。

「あなたが感じている違和感は、性行為感染症によるものです。薬を処方しますのできちんと飲んでください。この病気は男性は媒体となるだけで発症しません。つまり、どこかの女性の病気が、あなたのパートナーを経由してあなたに来たというわけです。彼にきちんとそのことを話して、病院へ行くことを勧めてください。言いにくいとは思うけど」

年配の女医はファウンデーションとまゆずみだけの化粧で、のっぺりした顔だった。地味だけど髪にはお金をかけている。ゆるやかなパーマで、根元まできれいな栗毛色。そしてよく見ると肌には健康的なツヤがあった。 わたしを責めていないやさしい目だと思った。多分、こういう場面に馴れている目。
だけども、わたしは目をそらす。

「わたしの所に連れてくればいい。どちらも完治しなきゃだめなの」
わたしはうなずいて診察室を出た。

教えてなんかやらない。

ナコと呼んでくれる人をなくすのは悲しかったけれど。
こうしてひとりで病院まで出向いた自分が惨めで、それは、あの人がすべて蒔いた種なのだと思うととても腹立たしかった。


一方で嫉妬というむつかしい感情をわたしは処理できなかった。許すとか許さないとかもわからないし、第一、ほかの女の人ともセックスしてるのが、生理的に嫌なのか嫌じゃないのかさえ判断つかなかったのだ。
あの人がほかの人とセックスするのはどうなのだろう?
結婚してるわけじゃないから、それでもいいはずなのに、それを想像するととても気持ち悪かった。汚らしい感じがした。
これが嫉妬というものなのかもしれない。
でも、汚らしいと思うのは嫉妬とは違うような気もする。
どっちでもいい。
考えているうちに、もう男と会うのはやめようと思った。

スターバックスの一番奥の席で、わたしは男の携帯電話の番号をブロックしてから削除した。

浮気の相手が誰だか心当たりもつかない。
たまたま誰かと一夜限りの間違いだったのかもしれない。
でも、その一夜を許してしまえば、ずっと苦しい夜が続く気がした。

好きならばちょっとくらいの不都合を許してもいいというのは、間違った道の岐路に立つようなものだ。ひとつのことを許すとどんどん違う道に迷い込む。とちゅうで気づいても引き返せない。
わたしはそのことを母親からイヤになるくらいに学んでいた。
間違った道の岐路に立ったときは、最初の一歩を絶対に踏み出してはいけないのだ。

私はそれをやらない。

母と同じ失敗はしない。

なのに 自分から別れるというのはすごく心もとないものだった。

別れを切り出されるときは、何も決断しなくていい、ただ受け入れて泣けばいい。

だけど、自分で決めるときは、ほんとうにこれでいいいのかと何度も思い返して悩む。

いつもそうだ。

自分で決めたことが自分にとって一番正しいと思うことすら学べないままに、私は大人になってしまっていたのだ。


””””””’’’

そのあとに男がどういう行動に出たか、私は知らない。

ネイルサロンはショッピングモールの2階にあるので、そこに男が来るのではないかと思い、1週間も仕事を休んでしまったからだ。

ここに来て私がいなければ彼はあきらめる。着拒とこれですべてを彼は理解する。深追いはしない。そういう確信が私にはなぜかあった。

店長のミドリさんはよほど仕事が好きなのか、帰ってもやることないのか、少々無理なスケジュールでもこなしてくれる。風邪をこじらせてと言ったら、ちゃんと治るまでゆっくり休んでいいと言ってくれた。

そして同僚のサトミには、なぜか、妊娠したかもしれない、と嘘をついてしまった。
サトミの家と通院する婦人科が近くて 、道端で会ったときの言い訳にしたかったからだ。あとは、間違いだったとか、適当なことを言えばいい。

幼い頃からの作り話が得意だった。この程度の嘘はなんでもない。
作り話はいつだって私を守ってくれた。私の思い出したくないものから、いつも私を遮断してくれた。

なのに、婦人科でばったりと出くわしたのは、なぜかミドリ先輩の方だった。

受付にいる見慣れた後ろ姿に気づき、とっさにトイレ角に隠れてしまう。この時間だと、遅番の出勤前に立ち寄ったのだろう。

ちょうど会計を済ませているところだった。「とちゅうで辞めずにきちんと最後まで服用してください」と言いながら処方箋が手渡されているところだった。

私が処方箋を渡されたときに言われたのとまったく同じ文言。

ただ、それだけ、ただ、それだけなのに。
記憶のレコーダーが勝手にぐるぐると逆回転してしまう。

彼が「お店が終わったら食事に行こう」とネイルサロンに立ち寄ったときの、ミドリ先輩の愛想のいい笑顔。
その次に彼が店の前を通ったときに、ミドリ先輩が先に気づいて教えてくれたこと。
また、その次に彼が立ち寄ったときの、ふくみ笑いのような笑顔。

あの笑顔の裏に隠されていたストリーが、どんどん頭の中にできあがってしまった。

断片を繋げておはなしを作るのが小さい頃から得意だった。
いつまでもどこまでも、広がるおはなしを作っていった。

嘘はいつもわたしを守ってくれた。

本当のことは残酷すぎる。
だから私は、好き勝手に頭に浮かぶ作り話だけを愛していた。

なのに、その「作り話」までもが、わたしに背を向けて、遠いところまでひとりで歩いていってしまう。


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