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ゆっきーは岩ちゃんを抱きしめたい

昔、小学校の校庭の外れに森があった。
たくさんの高い杉の木のおかげで夏でも避暑!と感じるような小さな森。
シダ類や中低木が茂り、ほのかに湿った神々しい空気を覚えている。
森では、みんなで植物を観察したり、図工に使う落ち葉を拾ったりした。
懐かしい静かな森。
約15年前に小学校は廃校になり、森は切り開かれただの切株だらけの原っぱになった。

低学年の頃、私は誰とでもすぐに仲良くなれた。
席が近いとか、同じ係になったとか、友だちになるには「偶然」の要素だけで十分だった。それはまた別の偶然によってすぐに疎遠になったし、疎遠になったことすら何も気にしなかった。新しい偶然を楽しみ、一期一会を日々体現していた。執着の「しゅの字」もなく、いつもその瞬間を生きていて実にマインドフルネスだった。

高学年になると、友だちになるために「気が合う」とか「一緒にいて楽しい」とか、「フィーリング」や「価値観」の要素がプラスされていった。
その頃、家には酒を飲んではグダを巻いて時に暴れる父がいたし、母が怒鳴りつけられる声を階下に夢うつつで聞いてうなされるような子ども時代だったけど、有難いことに友だちに恵まれたという自負がある。
なかでも忘れられない岩ちゃんのことを書きたいと思う。

私が岩ちゃんと仲良くなったのは4年生の頃。
岩ちゃんは勉強がよくできる聡明な女の子だった。
体得しつつあった「フィーリング」に引き寄せられて、校庭で一緒に遊んだり、岩ちゃんが通う英会話教室のハロウィンパーティーに招待してもらったり、交換日記をしたりして仲良くなった。
岩ちゃんは小学校近くの社宅に住んでいて、遊びに行くと岩ちゃんのお母さんはいつも優しく美しく微笑んでいた。
しっかり者で、はきはきと自分の意見が言える岩ちゃん。
のんびりしている私は、給食を食べるのも遅かった。
「ご馳走様でした!」の挨拶のあともしぶとくもぐもぐしている私につきっきりで「こっから3口!がんばって食べて」と箸で野菜をより分けながら励まし見守り、ようやく食べ終わると労ってくれるような、そんな姉御肌の女子だった。
岩ちゃんといるとなんだか半分妹みたいな気持ちになって、おどけてケラケラ笑ったりできた。のんびりしている自分も素敵だよって岩ちゃんにいつもギュッとハグしてもらえているような、そういう安心感をもらっていた。

5年生になったある日、私のことを突然「ゆっきー」と呼び始めた岩ちゃん。
それまでは岩ちゃん含めみんなから「ゆきちゃん」と呼ばれていた私。
まるで「私、100年前からゆっきーでしたわ」と錯覚する程にその名前をたいそう気に入ったのだった。
私の新しいニックネームは瞬く間にクラス中の女子にも評判になって、みんなが私のことを「ゆっきー」と呼び始めた。
岩ちゃんのネーミングセンスが世に認められた瞬間だった。

がしかし。そのことに気がついた岩ちゃんは、なぜだか烈火のごとく怒った。
「私が最初にゆっきーをゆっきーって呼んだんじゃけえ!みんなはゆっきーのこと、ゆっきーって呼ばんで!!」と高らかに宣言したのだった。
急遽勃発した「ゆっきー独占宣言」に、周囲は困惑した。
当のゆっきーは悲しいんだか嬉しいんだか眉毛をハの字にして、うんともすんとも言えず首をかしげるのみだった。
誰ひとり「ゆっきー」の名付け親の主張に異を唱える者はいなかった。
クラスの女の子たちは行き場を失った「ゆっきー」を封印して私のことを「おゆきさん」と呼び始めた。単純に「ゆきちゃん」に戻してくれても良かったのに、なぜ。
岩ちゃんにとっての「ゆっきー」=みんなにとっての「おゆきさん」という構図が板についてきた5年生の冬。
岩ちゃんは転校してしまった。遠くの町に新しく家を建てて社宅を出ることになったのだそうだ。
唐突に訪れた別れに、私は泣いた。
はじめて「偶然」じゃなくて「フィーリング」で結ばれた岩ちゃんを失うことはとても悲しく、ぽっかりと穴があいたようだった。執着の「しゅの字」が芽生えた瞬間だった。
あんなに世話を焼いてくれたのに、あんなに「ゆっきー」の著作権にこだわっていたのに。
岩ちゃんは涙ひとつこぼさず、笑顔でしっかり者の岩ちゃんのまま去っていった。

それから一度、新居のお泊りに招いてもらい束の間の再会を喜んだきり、岩ちゃんとは結局疎遠になってしまった。
「私だけのゆっきーじゃけえ」と叫んだあの日、いやもしかしたら「ゆっきー」と唐突に呼び始めたあの日、すでに岩ちゃんは自分が近いうち転校せねばならないという事実を知っていたんじゃないか。
私なんかよりもうんと早く「しゅの字」を体験していたんじゃないか。
もしそうだとしたら。
眉毛をハの字にしてばかりいないで、妹気分で頼ってばかりいないで、岩ちゃんをギュッと抱きしめてあげたかった。

5年生の岩ちゃんとゆっきーが、静かな森で笑い合っている姿を思い浮かべてみる。
あの静かでひんやりした森は、切株だらけの原っぱになってしまったから。
もう絶対に叶わないけれど、そんなことを考える夜更け。

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