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嘘と携帯電話

私には嘘と携帯電話についての苦い思い出がある。

高校1年生の秋。

(いざ年数にしてしまうと、もう『20年前』になるというから、驚きを通り越して感慨深い。思えば遠くへ来たもんだ。)

さて当時、携帯電話は爆発的に普及し始めた頃。

単音の着メロ、単色の画面背景、その画面も小さくて、写し出される文字が頼りなかった。

校内には言うまでもなく持ち込み禁止だった。

しかし友人たちとのメールや電話のやりとりが楽しく、あっという間に手放せなくなった。

校内でもみんなうまいこと隠し持っていた。

なんとなくゆるい、おおらかな時代だった。

もれなく私もその一人だったわけだが。

ある日、のっぴきならない事情(その朝、他校に通う中学の友人が交通事故に遭ったところに偶然通りかかり救急車を呼んだこと)で、その後の容体などの連絡が入るのをソワソワと気にしながら授業を受けていた。

ついに「今朝はありがとう、大したことなく無事でした」というメールを受け取り心底ほっとした時、画面をのぞき込んでいたのは私だけではなかった。(その時は美術の授業中で、先生が横で一緒にうなずいていた)

事情はどうあれルールなので取り上げますね、と私の二つ折りの携帯電話は没収された。

返却してもらうには、親に職員室まで取りに来てもらうというルールがあった。

家でこってり絞られた翌日、母が忙しい仕事の合間に受け取りに来てくれた。

つくづく親不孝な娘である。

両親は、私がかねてより携帯を校内に持ち込んでいることは知っていたし、塾で帰りが遅くなる日も増え、むしろ安全のために必要だと考えていたのだったが、私がこともあろうか授業中に扱っていたことに失望したようだった。

両親との話し合いでは「2週間、携帯を取り上げる」という罰が下されることになった。

しかし、私が本当の親不孝を働くのはここからである。

家の固定電話の子機を使って自分の番号にかけ、ブー、ブー、というかすかな振動を辿り、二階の両親の寝室の押し入れの片隅にたたずむ携帯を発見。

すかさずたまっているメールに返信し、またそこにそっと置いておくという数日を過ごした。

当時の私にとって、携帯でのやりとりが様々な関係においての最優先事項であった。

そうしてかりそめの取り上げ期間を過ごして一週間ほどたった頃、味をしめた親不孝娘は、両親が仕事に出かけた後、押し入れの携帯を持ち出し、日中は普段通り使用、帰宅後こっそりそこに戻すという悪行を働くまでに落ちぶれた。(←もはや取り上げ期間の意味)

それに気づき、快く思わなかったのが2つ上の姉である。

私の帰りが遅い日、「ゆきちゃんの電話にかけてみたら」と両親にさりげなく告げた。

「は、それ、どういうこと」と当然の流れで、帰宅したらかんかんの父と母が待っていた。

「こんなものがあるから、お前が嘘をつくんだ!」

すでに酒を飲んでいた父は、震える声で言い、私の携帯を奪い、壁に投げつけた。

私は私で「見つかってしまった」という己の不甲斐なさに、表情ではしょぼくれながらも「そんなことぐらいじゃ壊れないから大丈夫」と心の中で高をくくっていた。(この場面での心の動き、我ながらもう、ほんとにひどい娘である)

しかし、一瞬の沈黙の中にそれを見破ったかのように、父は落ちた携帯を拾い上げ、「ふんぬ(憤怒)!!」と、二つ折りの携帯を折れてはいけない方向に二つ折りにしたのであった。

これには私も盛大に白目をむき、絶句を決め込むしかなかった。

ただ一人母だけがその瞬間「やめて~(お金がかかっているのに!の意)」と叫んだ。

それを除けばあとは完璧な静寂だった。

二つ折り携帯のつなぎ目からは茶色いビラビラフィルムが2枚飛び出し、その2枚をこすり合わせると、単色の画面背景と(当時、緑と黄とオレンジの3パターンしかなかった)バイブレーションだけが反応した。

物悲しいリズムで携帯が振動したことが忘れられない。

私の親不孝な行いは、その後も数えればきりがないのだが、「嘘をつく」ということに関しては、この一連の出来事が今も苦々しい記憶として残っている。

自分可愛さだけの嘘は必ずバレる。

そして携帯は真っ二つになり、茶色いフィルムは飛び出す。

失った信頼を取り戻すのは、海に落ちた涙の粒を探すようなものだ。

かと言って、私が嘘をつかない清廉潔白な人物になったかというと、全くそうではない。

本心を隠す時、自らをアカデミー賞・助演女優賞受賞女優だと自負する時もあるし、つく必要のない小さな嘘にまみれた人生を送っているなぁと嫌になることも多い。

そんな日は、あのときの物悲しいバイブレーションの振動が蘇ってくる。


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