雨男のロードムービー__2_

【短編小説】雨男のロードムービー

文庫本20ページくらいの短編小説です。
雨の日の小樽が舞台の男女のお話です。
ぜひ読んでください!

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。


雨男のロードムービー

 ハンドルを切る左手に指輪の銀色が瞬いた。
 「小樽天狗山ロープウェイ」と書かれた旗はバタバタと賑やかに騒いでいたが、土曜日の夕方にも関わらず駐車場に車は少なく、心の中にあった嫌な予感が膨れ上がるのを男は感じた。
 車を停めてドアを開けると、湿った風が勢いよく流れ込んでくる。アウターの前をきゅっと寄せて外に出るが、夏の終わりといえど夕方の山の上は冷えており思わず顔をしかめる。ロープウェイ乗り場の古びた建物に近付いていくと、張り紙が目に入った。
「強風のためロープウェイの運行中止」
 ゆっくりとうしろを付いてきていた女が、それを読み上げた。
「ミーちゃん、なんかごめんね、わざわざ遠出したのに」
 男は振り向いて謝る。
「ううん。残念だったけど、あなたが謝ることないよ」
「いや、なんかね」
 男は苦笑いした後、改めて相手の顔色を伺った。肩に羽織ったストールが飛ばされそうになり自分を抱き締めるような形で腕を組んでいるのを見て、とりあえず寒いから車へ戻ろう、と女の肩を抱いた。
 追いかけてくるように駐車場へ入ってきた深緑の小さな車は遠くへ駐車していたが、誰も降りてこない。恐らく自分と同じように張り紙の内容が予想できてしまい、寒空の下に出て確認しにいくのも嫌になったのだろう、と男は予測した。
「出発する時点でちゃんと調べればよかったんだ」
「まあまあ。また今度来ましょう? それより家からずっと休まないで運転してきたから疲れたんじゃない?」
「いやいや、俺は大丈夫だよ」
 車に戻って、エンジンをかける。カーオーディオで流していた、十年程前に買ったCDが、思い出したように歌い始めた。男は今朝整えてきた髭を撫で、女は冷えた手先を擦り合わせ、しばらく二人とも黙っていた。芳香剤が取り付けられた送風口から暖かい空気が出始めると、凍り付いた体が溶けていくように全身の力が抜けていった。
 振動音が車内に響く。男は右ポケットに入れたスマートフォンを取り出そうとするが座席に腰掛けているせいで手間取る。横からの視線がないか気に掛かったが、淡紅色のマニキュアをぼんやりと眺めているだけだった。優しく撫でられている左手に、男と同じ指輪が輝いており、男は目を細めた。
 画面がまるで空気の読めない小動物のように煌々と輝き、そこにメッセージが浮かび上がる。
『久し振り! 急だけど今日飲みに行かん? お互い結婚生活の愚痴でも言い合うべ』
 男は隣の女性を横目にちらりと見た後、すぐに返事を打ち始める。
『すまん 今日はムリだわ 用事ある』
 送信して、鼻からふーっと息を吐いて瞼を閉じるが、間もなく手の中の小動物に起こされる。
『マジか! 了解! 相変わらずミユキさんとラブラブなんだな(笑) したっけまたな!』
 鼻で笑った男はもう返事を打たなかった。小動物をポケットに押し込むと、そいつもそれきり黙り込んだ。
「大丈夫?」
 助手席から声を掛けられ、笑顔を返す。小首を傾げる女の頭をぽんぽんと男は優しく叩いた。
「大丈夫。アキラって、俺の高校の同級生の話、したことあったっけ? 同じバスケ部だった奴なんだけど」
「ああ」
 女は眉を上げて話を促す。
「そいつから急に連絡あって。今日飲まないかって。でも断ったよ。先約あるっつってさ」
「そっか……申し訳ないことしちゃったね」
「いいんだ。あいつ……結婚生活の愚痴が言いたいんだと」
 男が半笑いを見せる。
「俺が断ったら、『奥さんと仲がよろしいんですね』だとよ」
 女は声を出さずに下を向いて笑った。男も視線を外し、前に向き直り、シフトレバーへと左手を伸ばした。
「指輪」
「ん?」
 そっと一回り小さな右手が重ねられる。
「指輪、今日はしてくれてるのね。この前、私、すねちゃったもんね。ごめんね?」
 謝りながらもにやりと口角を釣り上げる赤い唇を見て、男は自分の手を引き抜きそのまま女の冷たい手を上から覆うように握った。
「前も言ったけど、あんまり付けたり外したりしてると失くしちゃいそうだからさ、大事にしまっておこうと思ったんだけどね。結婚してからこんな今日みたいに楽しくデートするなんてなかったし、今日はようやくミーちゃんと休みが合って一日一緒にいれるんだから、さすがの俺だって一緒の指輪していたいな、って思ったんだよ」
 赤い唇は満足そうに微笑んだ後、男のそこと重なった。
「忙しいのに、時間作ってくれてありがと」
 ゆっくりと目を開けて少しの間幸福感に浸った後、男も満足気に笑った。
「さて。夕飯食べちゃおうか、ちょっと早いけど」
 男が車のデジタル時計に目をやると十七時三十分を回ったところだった。
「せっかくだから小樽で食べていきたいな」
「了解。美味しい店知ってんだ。ワインが美味い店だから飲みなよ、俺のことは気にしないでさ」
 男は女の右手を大事そうに両の手で持ち上げ本人に返し、シフトレバーを改めて掴んでドライブレンジへ動かした。


 札幌にある男の家から小樽天狗山までは車で一時間程掛かった。
 小樽市は札幌市に隣接する市町村の一つである。百五十年程前、蝦夷地が北海道と名前を変え、札幌がその要と定められると、海に面した小樽は北海道の玄関口として栄えた。そんな歴史の残り香と異国情緒に溢れる港町は、現在は大人も楽しめる観光地となっている。
 夜の見所といえば夜景が有名で、札幌、函館と共に北海道三大夜景とされている。
 緑に囲まれたいびつな坂の町にガス灯の暖かな明かりが揺れる。市街地や観光地の賑わいが海岸線をなぞる。夜景を抉る暗い海にゆっくりと船の光が行き交う。
 周囲が山になっているため毛無山、旭展望台等、スポットがいくつもあり、ロープウェイのある天狗山はその中でも最も定番といえるだろう。市街地を見下ろす高さにありながらも間近に見られる程良い距離に位置し、展望台が海岸線と正対しているため、街並みと海が視界の先に並ぶ。
 そんな小樽天狗山からの美しい夜景を誰かと一緒に見ることができたなら、仲が一層深まることは間違いないはずだが、見ようと思っていたのに見られなかったなんてことがあれば、引き返す車の中は言葉少なになってしまう。坂道を下る車内で、男はハンドルを握る右手の人差し指で聞き飽きた曲のリズムを取りながら「ああ、確かに風強いよなぁ」とか「雲も分厚くなってきてるな」とか呟き、女は「そうだね」と明るく返すが、会話は続かない。
 どうにか車内を盛り上げようとラブバラードを歌っていたCDも、二人と同じくもうネタが尽きてしまったようで、再び一曲目に戻ってイントロを流し始めた。
 苦し紛れのアンコールを聞いていられなくなった男が、カーオーディオをラジオへと切り替える。
 本州東岸を北上した季節外れの大型台風が強い勢力を維持したまま間もなく北海道へ上陸するとラジオが告げた。
 聞いていて心地の良い低い声は内容とは裏腹に明るい調子で続けた。台風に慣れている本州の人でさえ今年数度目のそれにうんざりしていること、台風が来ないと言われる北海道では対策に慣れておらず影響が大きくなると予想されること、北国は短い夏が終わり既に肌寒くなってきているため外出の際には防寒も必要だということ、可能な限り不要な外出は控えた方が良いだろうことに、女性パーソナリティが丁寧に相槌を打った。普段台風のニュースは他人事のように聞き流してしまうことが多いため、気付けば北海道に近付いてきており驚いてしまう、とスピーカーから唾が飛んできそうな口調でコメントした。リスナーの興味を引くための芝居がかった大袈裟な口調の裏に、番組の段取りを確認している冷静さが見え隠れしていた。
 その感覚は、しかし、「楽しいデート」を取り繕おうとする自分達二人の心理を鏡のように写したものなのかもしれないな、と、男は思った。
 小樽駅が近付いたところで赤信号に捕まり、男はわざとらしく空を覗き込む。灰色の空は夕焼け色に染まることなくそのまま暮れていくようだ。
 台風、タイミング悪いね、と助手席から声が掛かる。
 男が振り返る。が、それと同時に周囲の車が動き始め信号が青に変わったことを悟り、またすぐに前に向き直った。
「さ、もう着くよ」
 坂の途中、住宅の立ち並ぶ中にある小さな駐車場へ車を乗り入れる。一軒家のその店は西洋風の佇まいだが看板が控えめであり、初めて訪れる客は一度通り過ぎてしまいそうな程街並みに馴染んでいた。
「十八時か、お腹空いた?」
「うん、ワインのこと考えてたら段々お腹空いてきちゃった」
 車を降り、吹き付ける風に体を小さくしながら、入り口へ向かうが、そこで二人ほぼ同時に、あ、と声が漏れた。
 扉にはCLOSEと書かれた看板が下げられていた。
 天狗山の駐車場に入った時の嫌な感覚が思い出される。更に歩みを進めると、壁の張り紙に店舗移転のため休業することを詫びる文章が書かれているのがわかった。
 男は唖然としながらも顔色を伺うため隣を見やるが、女は空を見上げていた。視線が合うのを避けられたのかと怪訝に思いながらも女の視線を追って上を見ると、顔へ小さな衝撃があり思わず目を瞑った。人差し指で頬を拭い、それが雨粒だったことに気が付いた。
 顔を見合わせた二人は、重なる不運に落胆している互いの表情を見て、力なく笑ってしまった。笑顔を見て少しだけ救われた気分になった男は、気を取り直して、ひとまず車に入ろう、と促した。肩を抱くその構図はつい先程と同じだった。
 運転席に戻ると男はすぐにスマートフォンを取り出しウェブブラウザアプリを起動する。手早く検索しグルメサイトを開いた。
「このお店」
 助手席から注がれる視線に優しさを感じていても、男の口調は無意識に早くなった。
「イタリアンとかじゃなくて、いわゆる洋食のお店でね。一回だけだけど食べに行ったことがあってさ、滅茶苦茶美味かったんだよ」
 説得するように捲し立てながら、相手にも画面が見えるようにし、一緒に覗き込むため顔をぐっと近付けた。
「定休日は月曜日だって。今度はちゃんと調べたから、ね、大丈夫だ」
 誇らしげな笑顔の端々には、下調べせず続け様に失敗したことを恥じる思いが伺えたため、女は何も気にしていないよとにこやかな表情で返した。
「ハンバーグが美味いんだよ」
「好きだもんね」
「あ、オムライスも美味いらしいよ。ミーちゃんが好きなオムライス」
「ほんと? 食べたいな」
 男は、相手の笑顔に真実味を見た気がして、よおし、と意気込みエンジンをかけた。
「小樽築港の方だから、またちょっとだけ走るよ」
 既に雨粒はフロントガラス全面を濡らしていた。ワイパーを動かして見えた街は一段階明るさを落とし、雨に濡れ、表情が変わっていた。拭われた窓に再びぽつ、ぽつ、と雨が落ち、灯り始めた街灯の光を滲ませた。

 海岸へ向けて更に坂を下り、函館本線を越え、そして国道五号線を超える。
「あー……」
 男は高い建物が増えていく街並みとカーナビとを見比べながら言った。
「小樽運河の方走ってみようか。この天気だからわざわざ降りたりはしないけど、せっかく小樽来たんだし」
「いいね。雨の小樽運河もまた綺麗かも」
 女の返事を聞き、男は進路を変えた。
 カーラジオが流行の曲を流す。音が多く騒がしい。この曲は今週末札幌でコンサートをする男性アイドルグループの最新曲であるとラジオパーソナリティが小気味よく伝え、間もなくイントロが終わり瑞々しい声が歌い始めた。
「人気あるよなぁこの人達」
「そうだね、周りの子もみんな好きだよ」
 女は、そういえば、とくすくす笑いながら続けた。
「知ってる? このグループね、嵐を呼ぶって言われてるの。コンサートとかイベントとか、あと、テレビとか映画の撮影とか? 何かする度に天気が悪くなるんだって」
「そうなの? 何か爽やかなイメージなのに意外。きっと強力な雨男がいるんだね」
 生き生きとした歌声と幸が薄いエピソードが同時に耳に入り、そのギャップがおかしかった。
「本州からわざわざ飛行機でコンサートに来るファンの子もいるからね。今回も台風が重なっちゃって大変だと思うけど、それもこのアイドルのせいだって騒いでるんじゃないかな。半分喜びながらね」
 半分馬鹿にしたように喋る女の顔を男は想像し、何か言おうと考えたが、信号で曲がるタイミングが重なり、へえ、とだけしか答えられなかった。
 曲が終わると、番組はリスナーからの質問に答えるコーナーに移り、パーソナリティは一通の手紙を読み始めた。
 無駄に前置きが長く、運転する男の頭にはぼんやりとしか話が残らなかったが『最近芸能人のスキャンダルが多いですが、その行為自体よりも、世間の人へしっかりとした説明がないことが気になります、どう思いますか』といった、質問だか意見だかよくわからないものだった。
 下世話な内容に男は不快感を覚え、カーオーディオのコントロールパネルを睨み付けた。しかしラジオは男の視線を意に介さず話を続ける。ラジオからCDへ戻すか、と、伸ばした左手が宙で止まる。今更またCDを聞く気にもならない。カーオーディオそのものを切ってしまった。
 車内はぷつりと静かになり、男は自分の呼吸音を人に聞かれるのも何だか嫌になって息を潜めた。隣の人間も自分と同じように、通り過ぎていく景色をそっと眺める振りをして気配を消そうとしたように感じられた。
 小樽運河を左手に走る。雨は本降りになっており、川面は波立っている。レンガ造りの倉庫が車窓を流れる。ガス灯の橙色が雨に濡れた街に反射する。伴走していた運河がふと途切れ、右手にかま栄、ルタオ、北一ガラス等小樽の有名店が連なり、堺町通を裏に隠している。
 雨粒が車体を叩く音、たまにワイパーが窓を磨く音、対向車が水飛沫をあげ走り去る音……騒がしいであろうその音や音は、やや減衰して車内へと伝わった。地上数キロメートル、半径数百キロメートルの範囲に雨風が吹き荒れる中、この小さな守られた空間に二人で身を潜めている様を想像すると、まるで砲弾飛び交う戦渦の中、狭い防弾シェルターに逃げ隠れ、じっと落ち着きを待っているような姿を連想させた。スキャンダルで騒がれあることないこと世間様に言われる芸能人も、もしかしたらこんな気分でいるのかもしれない。ひと気のないメルヘン交差点を横目に見ながら男は物思いに耽った。

 アクセルを踏み込み三車線の広い坂道を上っていくと、大型複合商業施設の明かりが雨の向こうで霞んでいた。
「……あそこの観覧車、最近取り壊されたんだよね」
 独り言のように呟いた女の声は、沈黙の中で幻のように現れてすぐに溶けて無くなった。男が一瞥しても少し眠たそうに景色を見ているだけなので、本当は誰も何も言っていないのではないかと思えた。「乗りたかった?」という言葉が出そうになったが、この天気ではどの道乗ることはできないことに気付き、口をつぐんだ。
 大きな道を離れるとアクセルを踏む力を緩め、見落とさないよう慎重に進んだ。しかし、なかなかそれらしいものが見えてこない。
 しばらく進んだところで車を路肩に停める。女はそれで目的地に着いたことを悟る。が、二人とも黙ったままだった。
 何故なら、嫌な「予感」でもなく、既に確信めいたものが胸にあったからだった。
 色のない看板を雨が横から叩き付けている。びしょ濡れの窓ガラスの向こうは暗くて見ることができない。
 路地には自動販売機の明かりだけがやけに能天気に、まるで台風ではしゃぐ子供みたいに場違いな表情で、輝いていた。
 雨足は更に強くなってきていた。
「ねぇ」
 その声は雨音に掻き消されそうな程落ち着いていたが、男はびくっと体を強張らせた。
「雨もひどいし、もう遅くなりそうだから、家に帰らない? ハンバーグは作れないけど……簡単なパスタだったら私すぐ作れるから」
「ちょっと待ってて」
 女が言い終わるや否や、男はシフトレバーをパーキングへ入れエンジンはかけたまま、車のドアを開けてどしゃ降りの中に飛び込んだ。
 本当に営業していないのか……それはほとんどわかりきっていたし、何故営業していないのか……それももはやどうでも良かった。「ちょっと待ってて」と言ったのは優しさではなくて、女と別の空間に逃げたかっただけだ。
 雨粒は大きく重い。小走りで軒下へ向かうが、すぐに靴に水が染み込んだ。
 手書きの張り紙には、台風の影響で臨時休業する、と書かれていた。
 男は腹立たしい内容に歯を食いしばる。いやいやそれもそうだろう、仕方がない、自分のせいじゃないんだと頷く。納得できたつもりになるが、結局状況は変わらない事実が思考を侵食してくる。気を使う相手がいないのを良いことに大きく長い溜め息をついた。
「……まったくなんなんだよもう! ついてないなぁ……どうするよ……」
 吐き出した苛立ちと弱音は風に吸い込まれていった。
 ふと、店の前の自動販売機が目につく。荒れた暗い夜道を照らすそれは、自分の憂鬱を励ましてくれているように見えてきた。
「せっかくの二人の休日だもんな……これ以上時間を無駄にしないで、家に帰ってゆっくり過ごすのも悪くない、か……」
 再び雨の中に飛び出し、顔を伝う水滴に片目を瞑りながら自動販売機の品揃えを確認する。温かい飲み物が販売されていることがわかると、小銭を取り出そうと左のポケットに手を突っ込んだ。
 しかし、慌てていたためか、手が濡れていて滑ったのか、ポケットの中身をばら撒いてしまった。
「……とことんついてないな」
 そう言っている間にも容赦なく雨は降り注ぎ、どんどん髪や上着に侵入していく。暗い地面に目を凝らし、雨水に濡れた小銭を急いで拾い、左の手の平に集めていく。
「あ、指輪……」
 水溜まりに沈んだシルバーリングを右手で摘まみ上げる。
「危ない危ない」
 男は立ち上がり、手の平の小銭を自動販売機に投入し、温かいコーヒーを二つ買った。
 車に戻った時にはすっかりずぶ濡れだった。
「何やってるのよもう」
 呆れて言う女の顔を見ることができず、男はひとまず缶コーヒーを一つ手渡した。
「ごめんごめん、いやいや、参ったわ。あれだってさ、台風の影響で休みなんだってさ。それでね、ミーちゃんの言う通り家に帰るのが良いとは思ったんだけど、家に着くまでお腹空いちゃうし、飲み物だけ買おうと思って。なのに小銭ばら撒いちゃうんだもん。もうワヤだよ」
 男は顔を拭いながら相槌を入れる間もなく喋り続け、自ら大袈裟に笑った。
「何もこんな雨の中買わなくてもいいのに……」
 男は言い訳ができないのを誤魔化すため、缶コーヒーを開け、それで自分の口を塞いでしまおうとした。しかし、熱くてなかなか飲むことができず、あちち、と言ったり息を吹きかけたりして一人忙しなく缶コーヒーと戦った。
 女は静かに視線を落とし、熱い缶コーヒーを、指先まで引っ張った上着の袖で包んで持っていた。
「さて……じゃあ帰ろっか。早くしないと車が沈没しちゃいそうだね」
 ドリンクホルダーにほとんど量の減っていない缶コーヒーが置かれ、ワイパーの速度が一段階上がり、車はゆっくりと転回し元来た道を走り始めた。

 風は更に勢いを増した。水の張った路面から撥ねる水飛沫は帯状に光って寄せては引いてを繰り返した。
 国道五号線へ合流する頃、一度だけ女が口を開いた。
 そういえば、この前あなたと会った時も雨だった。そういえば、初めて会った日も。雨男はあなただったんだね。
 男が言葉を探しながら口を開くと同時に、車がトンネルへと進入した。雨が車を叩く音が消え、代わりに、トンネルに響く轟音が二人の耳を塞いだ。半開きの口は、言葉を発するタイミングを失いそのまま力無く閉じていった。
 トンネルを抜け、石狩湾を左手に走る。夜の海は雨の影響もあり空との境界を失くして闇に溶けていた。再び建物が数を増していき、時計台が描かれたカントリーサインを超え、手稲山を右手に走り、白い恋人パークを過ぎ、左折して大きな通りを離れ、細道を少し進んだ。
 四階建ての賃貸マンションの前は冠水して川のようになっていた。
「お疲れ様、お腹空いちゃったね」
 男が話し掛けるが、返事がない。不思議に思って横を向くと、女は斜め上を見つめながら目をぱちくりとさせていた。
 男も視線の先を追い、身を乗り出してフロントガラスから上を覗いた。
 ワイパーが視界を拭う。
 彼女が見つめていたものは、マンションの三階、角部屋の明かりだということは、すぐわかった。
「あれ、部屋に誰かいる?」
 驚いて尋ねる男に、女は淡々と返した。
「来てるみたい」
 満足した答えが得られなかった男は訝しげに尋ねる。
「来てるって、誰が?」
 答えを急ぐ男に合わせることなく、女は一拍置いて答える。
「旦那」
 男は一瞬言葉を失った。
「……旦那?」
 裏返った声に女は顔を逸らした。
「旦那って……どういうことだよ?」
 問い詰める男を無視して女はシートベルトを外し手早く身支度を整えた。助手席のドアを開けると、横殴りの雨が車内に入ってきた。
「おい、待てって!」
「別居してるんだけどね、今日はたまたまこっちに来てるみたい。悪いんだけど、今日は帰ってもらえる?」
「え?」
 悪いんだけど、と言いつつも悪びれた様子はない。もはや「楽しいデート」を取り繕うつもりは微塵もないのだろう。話の内容と、話し方と、そして思い出の中の彼女との間にずれが生じて、男の頭は更に混乱した。
「じゃあね」
 女は躊躇せず雨の中に出ていった。
 声を掛ける間もなくドアの閉まる音が耳に響くと、男も慌ててシートベルトを外し、車を降りて追い掛けた。
 ヘッドライトに照らされたうしろ姿に声を張り上げる。
「ミリア!」
 名前を呼ばれた女はマンションの玄関に入ると足を止め、額に張り付く髪の毛を手の甲で払いながら男の方を振り返った。
「結婚してるのに俺と会ってたのかよ!」
「それはあなたも同じでしょ?」
 靴は再び浸水し、大粒の雨は立ち所に全身を濡らした。
「雨男で、どこに行っても閉まっていて入ることができない。あなたって本当に運がない人ね。かわいそう」
 女は憐みの目で男を見た。
「さよなら」
 そう言って建物の中へ消えていった。
 男は言葉もなく立ち尽くした。
 黒い空を仰ぎ見て降ってくる雨に顔を濡らしたり、足元の水の流れを小さく蹴ったりした。
 混乱していた感情はやがて腹立たしさに収束した。そして次第に雨と風で頭が冷え、情けなさへと変わっていった。かわいそうなことをされたその相手に、かわいそうと言われたことが、とても惨めだった。
 顔を拭う。が、すぐにまた濡れる。拭って濡れて拭って濡れてを繰り返し、最終的には両手を使って顔を洗うようにごしごしと擦った。
 手を振って水を飛ばすが、顔も、手も、またすぐに雨に濡れる。
 男は諦めてとぼとぼと車に戻った。
 シートが濡れるのも構わず背もたれに体を預ける。下着にも水が浸みている。蒸れた車内と、体にへばりつく衣類が気持ち悪い。
 一人になった車内が寂しく感じ、男はカーオーディオをつけた。
 コマーシャルがしばらく続いた後、ラジオは二十時を告げた。
「腹減ったなぁ……ハンバーグ食いてえ……家になんかあるかな……」
 男はすっかり冷めたコーヒーを飲み干した後、もう一度大きく溜め息をついて頭をがしがしと掻いた。そして車を発進させ、女の家ではなく、自分の家へと向かった。

 車内の水気でフロントガラスが曇ってきたため、ヒーターを強くした。
 北一条通からそのまま国道十二号線に乗り豊平川を越えると、中央区から白石区へと入る。そこから右へ左へ曲がっていくと、自宅のマンションが見えた。
 駐車場に車を停め、雨の中を走り抜けてマンションへ駆け込む。共同玄関のオートロックの前までいくと、あ、と声を上げ、ポケットに手を入れごそごそと探った。
 ポケットから出てきた手には、シルバーリングが握られている。そしてその左手の薬指に既にはめられていた指輪を外し、ポケットから出したものと付け替えた。
「いちいち付け替えるのも面倒だけど、ミーちゃん、この指輪付けないとすねるからなぁ」
 男は外した指輪を見ながら呟くと、もう一度ポケットへ手を入れて中を探った。
「ん……あれ……」
 ポケットの中身をすべて取り出して確認する。広げた手の平には汚れた小銭が数枚。
 再度ポケットに手を伸ばし、ポケットを裏返してみる。中は空っぽだった。
 男は唖然とした。
「鍵がない……」
 ポケットに入れていたはずの鍵がない。どうして……と考えるうちに、二時間前の暗い路地の記憶がフラッシュバックした。雨の中で自動販売機の飲み物を買おうとしてポケットの中の小銭をばら撒いた、あの時一緒に落としてしまった鍵に気付かず置いてきてしまったに違いない。雨水に流されて排水溝に呑み込まれていく鍵が瞼に浮かび、男はうなだれた。
 気が遠のく感覚を振り払い、男は壁のインターホンの部屋番号を押した。
 エントランスに呼び出し音が響く。
 この時間なら妻がいるはず、と思いつつも、今日何度目かの嫌な予感が胸を支配した。
 ロープウェイは運休しており、最初に行った飲食店は移転のため休業中、次に行った店は臨時休業、行こうとした女の家は夫がいて入れず、自宅は……。
 呼び出し音が止まり、何の反応もなくなった。
 苛立ちを噛み殺し、右ポケットからスマートフォンを取り出す。「ミユキ」と登録された連絡先へ電話を掛けた。
 呼び出し音がしばらく鳴り、止まる。
「もしもし」
「あ、ミユキ? 俺なんだけどさ」
 今度は相手が出たことに男は胸を撫で下ろした。
「ミユキ、今どこ? いや、俺、ちょっと早く帰ってこれたんだけど鍵失くしちゃったみたいでさ、家に入れないんだよね」
 男は大声で笑った後、エントランスに反響した自分の声に辺りを見渡した。
「あれ、ミユキ? 聞こえてる?」
 返事のないスマートフォンを一度耳から離し、画面を見るが、「ミユキ」と通話中になっているため、もう一度耳に当て呼びかける。
「ミユキ?」
「不倫してるでしょ」
 妻の冷えた声に、男は不意を突かれて息を呑んだ。
「な……何のことだよ?」
「不倫してるでしょ。誤魔化したって無駄だから。証拠があるの。探偵に頼んで、調査してもらったの」
「おい、探偵って……」
「そしたら今日、あなたと女の人が一緒にいる写真が送られてきたの。……小樽天狗山って……あなたって本当にワンパターンな人ね」
 天狗山、という言葉を聞いて、眉間に皺を寄せ首を捻った。ロープウェイにも乗ってないのにいつの間に……と考えていくと、追いかけてくるように駐車場へ入ってきた深緑の小さな車のことを思い出した。誰も降りてこなかったあの車に乗っていたのが、自分を尾行していた探偵だったのではないだろうか。
 滲み出る冷や汗を拭いながらどうにか否定しようと、あの、あれだ、と言葉を繋いだが、結婚する前に妻を天狗山に連れて行ったことを男も思い出し、もはやどんな言い訳も通用する気がしなくなった。
「あなた、この前急に私のことミーちゃんって呼んだでしょ。なあんか気になったのよね……」
 男は顔を歪めて頭を掻いた。同じ「ミ」で始まる名前だから不倫相手のことを「ミーちゃん」とあだ名で呼んでおけば万が一名前を間違えて呼んでしまったとしても誤魔化しが利くと思ったのだが、勘付かれていたか。
「……すまん! いや、でもね、そう、今日、丁度別れ話をしてきたんだよ。もう絶対会わないから! とりあえず家に入れて……」
「無理よ」
 男の嘆願を女の言葉が遮る。
「私、今実家にいるんだから」
「え?」
 素っ頓狂な声が出る。
「今後のことはまた連絡するから、それじゃ」
「いやいや、待って! 鍵がないんだって! これは本当!」
「これはってあなたね……ミーちゃんとホテルでも行ったら?」
 言い返す間もなく電話が切れた。
 画面を見つめたまま呆然としていると、そのうちぷー、ぷー、という電子音も途切れた。
 エントランスに入ってきた老夫婦が傘を畳みながら、スマートフォンを片手に立ち尽くしている男を怪訝そうに伺った。視線に耐え切れなくなった男は再び外に出た。
 目も開けられない強風と豪雨が全身に吹き付ける。後悔してうしろを向くと、老夫婦が通った後の自動ドアは閉まっていくところだった。
 一瞬空が明るくなる。見上げると、どす黒い空に雷鳴が響き渡った。続けて救急車のサイレンが近付いてきて、そしていびつに変化しながら遠ざかった。その後、お腹の虫が情けなく鳴いた。
 男はどうしていいものか考え付かないまま、ふらふらと車に転がり込んだ。
 くしゃみをして、鼻をすすって、身震いをして、虚ろな目でエンジンを掛けた。
 スピーカーから雑音混じりのラジオが流れ始める。
 ラジオによると、新千歳空港の発着便含め多くの交通機関に欠航が出るらしい。土曜日の夜、人気アイドルのコンサートが開かれていたこともあり、ただでさえ宿泊施設は混んでいたが、足止めを食らった旅行者が市内のホテルに押し寄せ、どこも満室となっている、とのことだ。
 どうせ自分がホテルを訪ねても泊まれはしないだろう。男は自分の運の悪さに苦笑いした。カーオーディオをラジオから聞き飽きたCDに切り替えて、行く当てもないまま車を発進させた。



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