越冬

【短編小説】越冬センチメント

約15000字の短編小説です。

秋の札幌大通公園が舞台の、部活や大学受験に悩む中途半端な高校生、「冴えない後輩男子」と「秀才の先輩女子」のお話です。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆

越冬センチメント

 冷えた手の平を見つめる。

 彼女の手を握りたい。

 スマートフォンを取り出してカレンダーを開く。

 十月三十一日に、星印。彼女の誕生日。

 メモのアプリを開く。

買いたいものリスト

・新しいシューズ

 周囲を見渡した後、そっとその下に書き加える。

・誕生日プレゼント

 スマートフォンをしまう。お尻を浮かせてポケットから財布を取り出して中を覗く。

 千円札が数枚入っている。小銭入れを開く。しばらく眺めて、閉じる。

 財布をしまう。鞄の中から一枚の紙を取り出す。


 第二回定期考査の成績が印刷された紙が、冷えた風に煽られてぺらぺらと鳴った。くしゃみが出る。肩をすくめて目を上げると、澄んだ空に浮かぶ雲はうっすらと紅をさしていた。人生でこの季節を過ごすのは十数回目だが、どこかで聞いた「秋の空が高い」という言葉の意味をようやく今実感した。試験結果の紙で鼻をかみ乱暴に鞄に突っ込んだ後、代わりに今度は生物の参考書を取り出す。可愛らしい文字で落書きされた付箋を見付けて、笑ってしまう。

 学校の敷地内で男女二人が並ぶだけでも目立つ上に、秀才の先輩女子と冴えない後輩男子の組み合わせは余計に周囲から好奇の目で見られていたため、一緒に帰るようになってからの三ヶ月、学校裏の豊平川沿いの土手が待ち合わせ場所になっていた。夏場は暑くとも川のせせらぎを聞けば心地よく過ごせたが、気温はここ数日でぐっと下がってきている。その上、今日はこちらの部活が休みだというのに、相手は担任の教師と面談があるとのことで、こちらの待ち時間は長引いている。暇潰しに開いた生物の参考書をめくる指が、段々とかじかんできていた。
 待ち時間が心地悪くなってきているのは暑さ寒さだけが理由ではないか、と心の奥底で呟いた。
「アリとアブラムシは相利共生、サメとコバンザメが……」
 自転車の近付く音に気付いてはいたものの予想外の単語が背後から投げ掛けられ、凍えた体はびくっと縮こまった。遅くなったことに文句を言いたいところだったが、口をついて出たのは、視力いいなぁ、という気の抜けた言葉だった。
「まぁ、なんかもう、遠めに見ても、そのページの雰囲気とかでね、書いてある内容覚えちゃってて」
 さすが秀才は違うなぁと、聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
 参考書をしまい立ち上がり、重いラケットバッグを勢いよく持ち上げて背負う。自転車のスタンドを蹴ると大袈裟な音が辺りに響く。堤防の上まで押して行き、それぞれ自転車に乗り、坂道を連なって下る。
「ニッチが類似しているものに競争的排除されそう」
 うしろから声がしたが、風を切る音が大きく聞き取るだけで精一杯だった。そして理解できるのは、さっきまで眺めていたページに記載のあった単語だ、ということだけだった。急な理科の問題に苦戦していると、ヒントになる言葉が続いた。
「受験競争生き残るぞ」
 それを聞いて、今日の待ち時間が長引いた原因が担任教師との面談だったことを思い出し、また、理科の問題でありながら国語の比喩表現の問題でもあったことに気が付いた。先生に何を言われたのか尋ねようと一瞬だけ振り返ると、続けて言葉が飛んできた。
「生物と生物の関係のページ見てたしょ。弱肉強食、食物連鎖、捕食、被食……」
 坂道が終わり電車通りに出る。追い付いてきて横に並んだ彼女に、僕が続けた。
「お互いが利益を得るのが相利共生、かたっぽが利益を得るのは片利共生、あとは……」
「おお、覚えてるね」
 驚いた振りをしてくれる秀才の先輩に、冴えない後輩は返した。
「この前先輩に教えてもらったばっかですからね。物理選択の理系なのに受験を生物に例えるような国語力のある人に言われても、喜べないですよ」
「バカ。そんな皮肉が言えんならあんただって国語力あるしょ」
 赤信号で止まった僕等は、二人して苦笑いした。


 彼女はバドミントン部の一学年上の先輩で、定期試験の順位は学年で二十位以内には必ず入るらしいことは、噂で知っていた。対する僕は、入学してすぐの学力テストでは上位だったものの、高校から始めたバドミントンにのめり込み、学年順位はすぐに三桁になった。
 文武両道を謳う進学校で運動部に所属した三年生は、伝統的と言ってもいいパターンに沿って一年間を過ごす。毎年お決まりの流れでは、六月の札幌地区予選でしっかりと敗退しきちんと泣いて、七月の学校祭で大いに盛り上がった後、夏期休暇に入る頃、本格的に勉強を始める。優等生な彼女も先人達に倣い、地区予選でしっかりと敗退してきちんと泣き、そして七月の学校祭で大いに盛り上がった際に、冴えない後輩男子に告白された。
 僕が、学校祭の最終日、他人事と思って楽しむ男子部員達に背中を押され、出店の片付けを抜け出し、彼女を呼び出した。勇気を振り絞り交際を申し込んだ僕に、
「バカ」
 彼女はそう言って笑った。
 「ごめんなさい」とは言われなかった。しかし、「よろしく」とも「私も好き」とも言われていない。手を繋ぐようこともなく、ただ、ほぼ毎日一緒に帰るという中途半端な関係を続けるようになった。
 友人達は面白がってあれこれ問い詰めてきたが、自分でもこの状況を理解できていないから、自慢することも愚痴を言うこともできず、言葉を濁して笑ってごまかすしかなかった。


 二人の自転車が市電沿いを北上し、すすきのを超えて、狸小路の端を横目に過ぎる頃、街灯は既に明かりを灯し始めていた。茶色になった楓の葉がそこかしこに散っており、車輪が踏み潰すと乾いた音がした。
 大通公園に入ると幾つかの白い点が視界を漂い、僕は感嘆の声を上げた。「雪虫ってことは、来週には、初雪ですね」
 そう声を掛けた次の瞬間、急に、何度か経験したことのある不快感を覚え、驚き、声にならない声を上げ、自転車を止めて、咳き込んで、公衆の場であるのも気にせず、唾を吐き出した。
 雪虫が口の中に入ってきたのだ。
 その小さな羽虫は、体に白い綿を付けていて、ふわふわ舞う姿が雪のように見えることから雪虫と呼ばれる。秋から冬にかけての雪が降る前に現れるため、初雪が近いことを知らせる妖精にも例えられる。しかし、あくまでも虫である。大量発生なんてした日には、歩くのにも邪魔で、気が付いたら服に付けたまま室内まで連れてきてしまっていたりするから、邪見にする人も多いはずだ。ランニング中や自転車に乗っている際に口に入ったという話はよく聞くし、真実かどうか定かではないが、鼻に入った、耳に入った、あるいは、目に入った、という話も聞いたことがある。
 情けない呻き声で彼女に助けを仰ぐ。口から出ていったのか、あるいは更に奥へ進んでいったのかわからなかったが、喉に何か付いているような違和感が残っていた。
「雪虫なんて嫌いだ。子供の頃はまだよかったけど、今になって考えてみるとただの虫ですもんね」
「ええ? 『雪虫ってことは来週には初雪ですね』なんて小洒落たこと言ってたのに?」
 彼女は自転車に乗ったままこちらまで近付いてきながら、楽しそうに笑っていた。そんなに大きく口を開けていたら雪虫が入るぞ。
「先輩は、雪虫好きですか?」
 再び自転車のペダルを踏み込もうとするが、彼女はそれを気にせず自転車を降りるので、勢いを殺すのに苦労した。
「雪虫はね、アブラムシの仲間なんだって」
 そう言いながら自転車を押して道の脇まで寄せていく。
「子孫を残すために、冬になる前に成虫になって卵を産むんだけど」
 通行人の邪魔にならない位置で自転車のスタンドを下ろす。
「オスの成虫には口がないからエサを食べられないんだって。メスも産卵を終えたらすぐ死んじゃうし。まあ、どっちみち冬を越すことは、できないんだろうけど」
 公園に並ぶベンチの上を観察し、落ち葉をつまんで放る。
「飛ぶ力も弱いから風に流されて雪のようにしか飛べないし。熱にも弱いとかで」
 ベンチに腰掛けて、僕を見る。
「人肌に触れただけでも、あったかすぎて、弱っちゃうんだって」
 彼女の笑顔に、風になびく髪がいたずらをした。
 体が、また一段階冷えたのを感じた。
 言葉を選びながらも、自分も自転車を降りて道の脇まで押していく。
「ロマンチックなんだか、現実的なんだか」
 僕が自転車を停めると、彼女は座る位置を少しずらして隣に座るように促した。
「そんなことまで大学受験には出るんですか」
「これはね、おじいちゃんが教えてくれたんだよ」
 こんな寒い日、彼氏彼女の関係であればぐっと寄り添って座るのだろうな、そう思いながら、僕は先輩との間に僅かに距離をあけて座った。木製のベンチのひんやりとした温度がお尻に伝わってきた。
「ねえ、もしこの冬を越せないとしたらさ、どうする?」
 顔を覗き込んでくる彼女は、まるで心理テストでこちらの考えを探っているかのようだった。
 僕は一匹の雪虫が彼女の服の袖にとまっているのを見付けた。
「そうですね」
 先輩が寒そうに手の平を擦り合わせると驚いた雪虫は飛び立っていった。すぐにどこに行ったのか目で追えなくなって、そのまま僕はぼんやり宙を見つめた。僕の手は、先輩のように手の平を擦り合わせるその動きさえできない程にかじかんでしまったようで、ポケットの中に身を潜めたまま動かなかった。
「先輩と子孫を残します」
 頭に浮かんだ言葉は冗談めかして言うことさえできない。
 僕は見失った雪虫を目で追う振りをして彼女の視線を避けた。
「みんなでお好み焼きでも食べに行きたいですね」
 彼女は「バカ」と言って笑う。


 大通公園の西六丁目は公園の中心にも木々が植えられておりいつも薄暗いような印象だ。僕達が座っている西側には、動物達の像があり、それを円形の池が囲んでいるが、噴水になっているということでもない。大きな噴水やオブジェがある他の区画と比較すると、良く言えば落ち着いており、悪く言えば地味だった。道路を挟んだ西七丁目に目をやると、こちらとは違い、公園中央には大きな木も彫刻もなく、開けて明るい空間になっている。花壇に黄色や橙色のマリーゴールドが咲いているのが遠目にも見えた。秋のカラーとはいえ、鮮やかなその色は日本の伝統的な色彩とは異なり、暮れなずむ紅葉の公園に馴染んでいない気がした。
「雪降ってからってこの子らどこ行ってたっけね、この公園にずっといたっけ?」
 灰色の鳩が、小さく喉を鳴らし、地面に落ちた細かな木っ端をついばんだり、赤い目を忙しなく動かしたりしながら、少しずつ僕等に近付いてきた。彼女はそれを見て両方の手の平を見せて、ごめんね、何も持ってないわ、と話し掛けた。
「あーどうでしたっけ。たしかに冬場はいたっけなぁ」
 悪意等一切なくただ通り過ぎていくだけの中年女性に気付くと、鳩は大慌てで逃げていった。
「雪虫出たからってすぐ根雪になる訳じゃないけどさ」
 彼女は去っていく鳩を見つめたまま僕に語り掛けた。
「雪降ったらチャリで通えなくなっちゃうよね」
「ああ……」
 この何気ない話題に、胸が大げさにざわつくのを感じたが、次の言葉は予め準備されていたようにするっと口から出てきた。
「冬は、地下鉄ですよね」
「そう、地下鉄」
「南北線ですよね」
「そうだね、北二十四条駅の近くだから。そっちは東豊線だもんね」
「そうですね、家があるのは先輩と同じ札幌の北側ですけど。南北線に乗るってことは、学校から歩いて幌平橋駅に向かうのがスムーズですよね」
「南北線は学校の近く走ってくれてるからね。東豊線は……」
「まず市電ですすきのまで出て、そこで乗り換えです」
 そうなんだ、と彼女はこちらを振り返り言った。初めて聞いた、知らなかった、という素振りだ。同じように地下鉄で通う人は彼女の周囲にもいるはずであり、反応が不自然に思えた。この一連の会話は、僕達の学校では、新入部員の勧誘等の際に繰り返し利用するためテンプレート化されていた。
 僕は彼女から視線を外し、傍らに停めた自転車のお尻に貼られた、高校の名前が入った原色のステッカーに目をやった。三年生は赤で、二年生は黄色だ。
 札幌の三つの地下鉄、南北線、東西線、東豊線はどれも、札幌駅や大通り、すすきの等のある中心部を通り、各方面へ走っていく。東豊線も南北線同様に、市街地の南北方向に走っているが、東豊線は南北線よりも東側を担当する。どちらも札幌の北部へ向かうことができるが、南北線は北区を、東豊線は東区を通る。
 僕達の高校から、それぞれの地下鉄に乗る場合、南北線には学校から最寄りの幌平橋駅まで歩いて数分で着くことができる。しかし、東豊線の駅まで歩くと三十分程度要する。そのためまずは路面電車に乗り、すすきので乗り換える。南北線もすすきのから乗ることはできるが、わざわざ乗り換えるよりは地下鉄のみで帰った方が楽であり、路面電車に乗る必要はない。
 僕と彼女は学校を出て北へ向かう点は同じだから、夏場、自転車の場合は途中まで一緒に帰ることができる。しかし、住所は東区と北区。地下鉄で通学するなら、東豊線と南北線で異なってくる。
 そして、冬の雪国で自転車通学を続けることは出来ない。
 要するにこの話題を通して彼女が聞きたいことは、そして僕が聞きたくないのは、「雪が降って自転車通学できなくなって一緒に帰れなくなったらどうするのか」ということだ。
 手も繋がない、恋人ではない、そんな関係の僕達を繋ぐのが、この自転車での帰宅の時間だった。その帰宅の時間をどうするのか、という質問が意味するところはつまり――
「じっとしてると寒いですね。そろそろ、帰りますか」
 お喋りな沈黙が質問を投げ掛けてくるのに耐え切れず、僕はベンチから立ち上がり言った。丁寧に説得する代わりに、両手を口の前で合わせて息を吐き掛け、スマートフォンを取り出して時間を確認してみせた。
 笑顔を作って彼女を見ると、一瞬ぼうっと俯いていたが、すぐに顔を上げた。彼女も彼女でしっかりと笑顔を作っている。
「もうちょっとここで話そう?」
 自分の提案を否定され、僕の作り笑顔はあからさまに曇ってしまったと思う。顔を背けて、そうですね、と唇が勝手に口癖を選ぶ。
 一人で突っ立っているのは居心地が悪い。所在なくスマートフォンをもう一度確認してみたり伸びをしてみたりしながら彼女の様子を横目に見るが、自分とは対照的にじっとしたまま動かない。
「えっと……」
 口ごもりながらも、立ち上がってしまったことと、「寒いですね」と言ったことにこじつけた次の行動を探す。
「あ、じゃあ僕、あったかいコーヒーかなんか買ってきますね」
 言い終わらないうちに、僕は歩き出した。視界の端で彼女はやはり、動かないまま、笑顔のまま、何も言わないままだった。儚げに見えるのは、僕の心のフィルターを通すせいだろうか。
 辺りはもう暗くなっている。冷たい夜の空気に街灯の明かりが浸み込んでいる。耳や鼻に手を当てて温めながら公園の木々の間を抜けると、「開拓記念碑」と彫られた大きな石碑と、野外ステージの間に、自動販売機がぽつんと立っている。動物園の白熊の柄は、企業のロゴやカラーが前面に押し出された一般的な自動販売機よりは良いのかもしれないが、自然に溢れた公園の雰囲気にはそぐわないように見えた。
 お尻のポケットから財布を取り出しながら飲み物の種類に目を通すが、あることに気付き、改めて指をさして左から右へ一段一段順に確認する。
 気まずくて提案した行動なのに、うまくいかないなんて、更に気まずい。
 溜め息のために口からたっぷり息を吸い込むが、仕方ないと諦めて、胸に溜まった空気は噛み殺した。財布を戻してベンチで待つ彼女のところまで戻る際、早足になって気持ちを悟られないか心配だった。
 手ぶらで帰ってきた男の情けない苦笑いを見ると、彼女はにやっと歯を見せた。
「あの、すみません、あったかい飲み物、まだありませんでした」
 彼女は「バカ」と言って笑った。

 

「また部活やめる人いるんでしょ?」
 自動販売機の間を往復している間に、彼女は何の話をするか心に決めていたようで、僕がベンチに腰掛けるとすぐに話し始めた。
「ちゃんと時間作って話したの? 副部長さん」
「……話しましたよ?」
 急に部活での役職を持ち出され責められ動揺してしまい、声が上擦る。「話しましたけど……将来のために勉強することに決めたって言われちゃったら、返す言葉ないじゃないですか。部活をやめるのだって勇気がいるはずだし、そいつが散々悩んで出した答えを否定したら、かわいそうっていうか……定期考査も終わって、親にもごちゃごちゃ言われたんじゃないですかね、たぶんですけど。進学校なんだから……結局将来スポーツ選手になれる訳でも、なりたい訳でもないんだし……」
 思わず長々と喋ってしまい、その続きは飲み込んだ。退部する人を庇うようでいて、自分を守るその言葉は、飲み込むと吐き気がした。
「まあそれも真だけどさ」
 彼女は僕の勢いを受け流すように少し体を反らし、自分に言い聞かせるように言葉を続けた。
「どんな結果になるとしても後悔しないために、お互いの気持ちを伝え合う時間を、大切にしたいな」
「どんな結果になったとしてもって……まずは理想の結果を出すために頑張るのが最優先じゃないですか?」
「うーん……」
 幼子に手を焼く母親のような優しい困り顔で言葉を探している。
「まあ……一年後には否応なしに受験勉強が待ってるんだからさ、今、誠心誠意向き合ってあげてよ、副部長さん」
「……副部長っていうのも、別に、名前だけで、何をする訳でもないですし」
 僕はぼやいて反応を伺う。
「だからこそだよ。何でもかんでも『副部長ですから』でゴリ押してやりたいようにやんなさいって。後輩の面倒見たり、部長の顔色見たり、大変だと思うけど」
 僕は彼女の言葉を受け流せず、真横から顔を殴られたように、前を向いたまま首を彼女と反対側へかしげた。
 部活に対する悩みをピンポイントでつついてくる彼女に徐々に苛立ちが募ってきた。そしてそれは恐らく、彼女の思惑通りであり、それがまた僕を苛つかせた。彼女には僕の心のくすぐったいところが全部丸見えになっているようで、僕は彼女の手の平で転がされてしまうのだ。
「あー……後輩や同学年だけじゃなくて先輩の面倒も見なきゃいけないですよ?」
「あ、もう、あいつ、まだ部活いってんの?」
 「あいつ」とは彼女のバドミントン部の同期の男子だ。既に部活を引退しているのだが、未だに部活に顔を出し続けている、運動部に所属していた三年生お決まりの流れからはずれている人物である。
「現役部員がアップ終わった頃にふらっと現れて、やりたい練習だけ混ざって。相変わらず自由ですよ」
「勉強の息抜きなんだろね」
「ていうか勉強してるんですかね。未だに少年ジャンプ毎週欠かさず読んでるし。あの人のことだから北大合格も余裕なんだと思いますよ。自分を貫いてストレス溜めずに受験当日を迎えられるかあの人にとっては大事なんじゃないですか」
 僕は苦笑を浮かべた。
「そっか、そうだね、あいつはそうだよな」
「先輩は、結局大学どこにするんですか?」
 弄ばれた仕返しのつもりで自分が放った言葉が、耳を通して脳に伝わって心をちくりと突き刺した。この質問はずっと避けてきたものだった。
 彼女はたじろぐことなく眩しそうに目を細めた。枯れ葉が一枚落ちる時間だけ待ってから、口を開いた。
「今日の、先生との面談でね」
 何故だか無性に枯れ葉の行方が気になってそっちを見たいのに、僕の視線は彼女の優しい顔に釘付けになっていた。
「やっぱり東大目指したらどうだって言われたんだわ」
 一瞬世界が止まったかのようにも思えたが、ぱちりと一度瞬きをすると、また一枚枯れ葉が落ちてくるのがわかった。今度はそれが地面に落ちて、更に風に吹かれていくところまで見送った。
「そう、ですか」
「うん……私もやっぱり受けたいなって思って。今よりもっと、頑張んなきゃいけないんだけど」
 遠くで救急車のサイレンが聞こえたかと思うと、近付くことなくまた消えていった。そのあとの静けさに聞き入っていたかったが、何か返事をしなければいけないと思い焦った。
「お母さん寂しがっちゃうな。応援してくれるかな」
 言葉に詰まった僕の代わりに、彼女は間を埋めた。
 驚きと、悲しさと、怒りと、それ以上に大きな寂しさと、そして彼女の頭の良さへの嫉妬と、彼女の強さへの尊敬が混ざり合って、言いたいことは自分でもわからなくなっていた。
「応援してくれますよ。大切な人の立派な目標なんですから」
 体も表情も頭もうまく動かないままだが、口が自分で動いてくれた。
 彼女が志望校の話を他の先輩と話しているのを耳にしたことは今までもあったが、頭の良さを鼻にかけない彼女はいつも少し誤魔化して話題を逸らしていた。しかし、北海道トップクラスの進学校の、学年トップクラスの秀才が、レベルの高い大学を目指して本州の大学を受けることは十分に予想できることだ。
 勢いに任せて自ら地雷原に足を踏み入れたことを後悔した。
東京の大学に行くということは、つまり彼女が遠く離れることを意味する。学年が一つ下の僕は、一緒に大学へ進学することはできない。もし彼女が合格すれば、来年の四月、つまりあと半年後には会えなくなる。札幌から東京まで、飛行機で何時間だ? 航空券はいくらするんだ? 世間知らずの僕にはわからなかったが、容易く会えないことは間違いなかった。
 心の中にぽたぽた垂れて溜まっていく感情があった。
 ずっと迷っていてくれたら良かったのに。彼女が臆病だったら良かったのに。彼女の試験の点数が偶然でもいいから低ければ良かったのに。泣いて僕に相談してくれたら、そしたら、精一杯優しくして、安全で楽な道へ導いてあげたのに。
 自分の中のその感情は、黒くどろどろで、それでいて無邪気な子供のように眩しかった。
 ああ、強い人なんて好きにならなければ良かった。自分の弱さが際立って困る。




「さあ、もうそろそろ帰りましょう」
 先程からまだそんなに時間は経っていなかったかもしれないが、僕は再び提案した。
「え?」
 彼女は虚を突かれて瞬きをした。
「すみません。寒くなっちゃいました、僕の方がギブアップです」
 実際、放課後からずっと外にいた自分は、たまに鼻をすするくらいに、体の芯から冷えていた。
「すみません。弱くて」
 あえて笑ってそう言うと、彼女を申し訳なく思わせることに成功したようで、彼女は困ったような笑顔で僕を見つめた。
 木枯らしが吹き付けると彼女も身を小さく固くした。そしてそのまましばらくの間、薬をなかなか飲み込めない子供のようにじっとしていたが、やがてこちらに向き直って口を開いた。
「もう少しだけ。もう少しだけ話そう? ……大事な話があるの」
 公園の木々がざわざわしながら遠巻きに二人を見守っていた。
 思い通りに動いてくれない彼女に「うるせえ」とか「言うこと聞け」とか怒鳴ってやりたいような衝動もあったし、頭では「親に早く帰るって言っちゃったから」とか「見たいテレビ番組があるから」とか言い訳も考えていたが、どの言葉も選ぶことができず、結局、帰りましょう、とだけ言って、彼女を無視して僕は腰を上げた。
 ラケットバッグを背負い、自転車のハンドルを持ってスタンドを蹴り上げて、僕が手際よく帰り支度をしていると、やがて彼女も立ち上がった。彼女の準備ができると、無言のまま自転車を自分の右隣りに並ばせて歩き始めた。自転車を押す二人が並んで歩くと広い公園の中とはいえ場所を取って邪魔になるため、なるべく端を歩き、手を繋いではしゃぐカップルと擦れ違った。僕は冷たいハンドルを握り直した。



『……大事な話があるの』
 彼女の言葉が思い出され僕の耳をくすぐった。
 彼女は、今日の面談を受けて東京の大学を受験するという険しい道を進むことを選び、そして二人の関係について話し合うことを決心したのだろう。
 僕達は恋人同士ではない。「好き」と言われたことはないし、手を繋いだこともない。だから本来、「別れ話」も「相談」も必要ないはずだ。
 お人好しの彼女は、僕の彼女に対する気持ちを考えると、この関係性を粗末に扱うことはできなかったのだ。余計な緊張を感じながらも勇気を出して話を切り出してくれたのに、僕は不快感に任せて身勝手に拒んでしまった。『ちゃんと時間作って話したの? 副部長さん』
 彼女の声や表情が脳内で繰り返し再現される。
 ほぼ毎日待ち合わせをして一緒に自転車で帰る。それによって僕がバドミントンの自主練をしたり、部活の仲間と話したりする時間が削られていることはわかっていたが、むしろその自己犠牲のお陰で僕はヒーローのような気分に浸ることができた。
『今よりもっと、頑張んなきゃいけないんだけど』
 フラッシュバッグは続く。
 自分の気持ちを優先させて、受験を控えた彼女の自由を奪っていること、それを彼女がどう思っているのかということは考えていなかった。考えないようにしていた。
 好いてくれる後輩の気持ちを無下にできない彼女の優しさに、甘えていたのだ。
 受験勉強の期間とはいえ僕と話す時間が彼女の息抜きになるはず、そう自分に言い聞かせてきたが、志望校のランクを上げた彼女にとっては寝る間も惜しいはずであり、冴えない後輩の面倒を見る時間なんて真っ先に削るべきなのは明白だった。
『雪虫出たからってすぐ根雪になる訳じゃないけどさ、雪降ったらチャリで通えなくなっちゃうよね』
 自転車で一緒に帰る時間は僕にとって大切な時間であり、無くなって欲しくないことは確かだが、彼女の言った通り実際まだ自転車通学はできるし、例えそれができなくなったとしても、一緒にいる時間を作ることは不可能ではない。中心となる問題はこれではない。
『将来のために勉強することに決めたって言われちゃったら、返す言葉ないじゃないですか』
 自分の憎たらしい文句も頭に響く。
 東京の大学へ行く、ということも一つの問題ではあるが、これも最大の問題ではない。例えば彼女がもし地元の大学に行くと言っていたら? 東京の大学に受からなかったら?
『どんな結果になるとしても後悔しないために、お互いの気持ちを伝え合う時間を、大切にしたいな』
 地元の大学に行く場合も東京の大学に受からなかった場合も、いずれにしても二人の環境は必ず変化するので、付き合い方を考える必要がある。彼女が東京の大学に行くなら、春からは遠距離恋愛として続けていくことも考えられる。
『今、誠心誠意向き合ってあげてよ』
 一番の問題は、関係性が半端なことだ。僕の部活、雪が積もった後の通学、彼女の受験、春には必ず訪れる環境の変化……それらを、自分の思いを誤魔化したままやり過ごすことはできない。自分の本音や全力にケチを付けられたくなくて、必死にもがく姿を見られるのが恥ずかしくて、笑い話でその場凌ぎをする習慣が身に染み付いていた。しかしそれでは、友人に勧められて買ったいくつもの問題集を全部途中で投げ出しているみたいに、何もかも中途半端になるだけで達成できないのだ。このまま黙っていても状況は悪化するだけだ。
 いずれの道に進むにしても、まず真っ直ぐ向き合うことが必要なのだ。『応援してくれるかな』
 頻繁に連絡を取って、たくさん会う機会を作って、それが女性の求める関係だとテレビか何かで見た気がした。自分の時間を削ってでも毎日一緒にいることが愛情表現だと思っていた。例え告白した結果恋人同士になれなくても一途に想い続けることが男らしさだと思っていた。
 でも、この世で一番大切な彼女にあんな辛そうな顔をさせて、大切な話を切り出すのを任せて、挙句の果てには、その勇気を無視して、この僕の一体どこが男らしいのだろう。
『生物と生物の関係のページ見てたしょ。弱肉強食、食物連鎖、捕食、被食……』
『お互いが利益を得るのが相利共生、かたっぽが利益を得るのは片利共生、あとは……』
 あとは、寄生だ。
 彼女を傷付ける外敵から守ってあげたいと思っていたのに、僕が傷付けているなんて。
『バカ』


 レンガ敷きの道を、自転車を押して進み、大通公園西六丁目の東側へ抜けると、木々が隠していたテレビ塔が姿を現した。晴れた夜空の中で、周りが白む程に青いイルミネーションをきらきらさせて僕等を歓迎した。彼女も隣で、見慣れたはずのそれに見とれたようで、固く結んでいた唇を緩ませて息を呑んだ。
 そんな彼女に無意識に目を移すと、彼女は視線に気付いてまた噛み締めるように口を閉じて、そしてゆっくりと僕の方に顔を向けた。
 半分だけ街灯に照らされた彼女の顔は、半分だけ悲しそうな半分だけ楽しそうな、切ない顔で、強いと思って甘えていた年上の女性の、何があっても揺るがないと信じていた笑顔が崩れていく様は、とても美して、胸が痛んだ。
 色々難しく考えてみたけれど、僕はこの人のことが好きだ、ということは確かで、そして最も大事なことではないかと感じた。
 彼女が力なく口を開き、何かを言いかけた。
 しかし、その時、強い風が僕等を追い越して、彼女は目を細めて風下に顔を隠した。
 僕も彼女につられて風の向かった先に目をやった。
 今通ってきた公園の中で、橙色の街灯の光を浴びながら、手前から奥まで、すべての木々が一斉にざあーっと音を立て体を揺らし、無数の葉をゆっくりと散らした。
 その幻想的な光景を見て僕は、ああ、冬が来るな、と心の中で呟いた。『ねえ、もしこの冬を越せないとしたらさ、どうする?』
 彼女の声が、リピート再生される。
 彼女の横顔は薄暗いが、まるで北風に翻弄される雪虫のように心が揺れているのが伝わってきた。
『人肌に触れただけでも、あったかすぎて、弱っちゃうんだって』
 彼女の声が僕の頭の中で、鈴の音のように周囲の喧騒を押しやって、響いた。
 ハンドルを握る彼女の右手をそのまま上から、僕は両の手で握り締めた。
 鼓膜を突き刺すがしゃんという音がしたのをきっかけに、自動車のエンジン音や、子連れの母親の文句や、横断歩道が青であることを告げるためにスピーカーから流れてくる鳥の鳴き声といった喧騒が、耳に流れ込んできた。
 うしろで自転車のチェーンが回るちりちりという音が聞こえた。それはそうだ、両手とも離してしまったのだから、当たり前に自転車は倒れる。
「先輩」
 初めて触れた、僕が恋をした女性の手は、これまで僕等が過ごした長い時間を物語るように冷たかったが、それでも温もりが伝わってきた。
 彼女は右手だけハンドルから離して僕の手をそっと握り返した。彼女の自転車を挟んで、二人で向き合うと、「恋人同士が手を繋ぐ」というよりは、まるで握手をしているような形になった。
 これから自分が何を言うのか自分でもわからないくらいに、たくさんの想いが混み上げてきたが、もう一度、一つ確かなこと、僕がこの人が好きだということを心に感じて、僕は僕が何を言うのかを待った。
「先輩、先輩の受験、応援してます、だから……」
 僕は笑顔を作ろうとしたが、無駄な力がどうしても入ってしまって、ぐしゃりと潰れた皺だらけの情けない表情にしかならなかった。声を絞り出すうちに、喉にも余計な負荷が掛かっているのか、痺れるような痛みが広がった。
「先輩が合格したあと、また……部活のみんなで、お好み焼き食べに行きましょう、だから……」
 彼女の手から僕は左手だけ離し、皺の寄った眉間に人差し指の第二関節を思い切り押し当て、その次に唇に押し当て、挙動不審に顔を動かして、吸い込んだ息が勝手に漏れ出て、
「あれ……ダメだ、カッコ悪……」
と言って、涙を流した。

「バカ」
 彼女はそう言って泣いた。

「何さ、急に。お好み焼き? 自転車倒しちゃって、通る人の邪魔になっちゃうし。こんな人通りの多い場所で、なんか握手みたいになってるし。手を握って伝えるならさ、もっとロマンチックな言葉でしょ」
 左手で自転車を支えて、右手で握手をしている彼女は涙を拭えず、顔を隠すようにまた公園の木々を見上げた。
「カッコ悪くなんかないよ、バカ」
 彼女は僕以上に涙を垂らしながらも幸せそうに笑っていた。
 照れ臭くなった僕は、すいません、と言って右手もぱっと離して涙を拭ったが、やっと握れた想い人の手を容易く離したことをすぐに後悔した。
 彼女も自由になった右手で猫が顔を洗うように涙を拭いた。
 ぐすんと鼻を啜る彼女を背にして横になった自転車を起こす。怪訝そうに二人を観察しながら仕事帰りのサラリーマンが通り過ぎる。
「すいません」
 行き交う人の視線を通して自分の奇行を改めて客観的に見つめると、あれ、何してんだろ、本当にバカだな、と思えてきて、彼女と目を合わせるのも恥ずかしくなった。それでも彼女は、ううん、ありがと、ごめんね、ありがと、と泣き続けるので、今度は自分が女性を泣かせている構図に気付き慌てた。こんな時、経験豊富で余裕のある大人の男性であれば手を握ってあげたりするのだろうかと思ったが、今の自分にはもう見守ることしかできなかった。
 涙に濡れた彼女の顔は、イルミネーションのようにきらきら光って、美しかった。
 彼女が落ち着いた頃に僕はもう一度、すいません、と謝った。彼女は真っ直ぐに僕を見つめていたが、それがまた面映ゆく感じて、大通公園の続いていく様子に視線を走らせた。
「あの、僕、今日寄っていきたいところあるんで。すいません、今日はここで」
 彼女は悲しそうな表情を隠さず素直に僕に見せた後、そっか、わかった、と微笑んだ。
「言っとくけど、私、絶対に受かるからね」
 彼女は普段通りの勝気な笑みを見せた。
「頑張ってください」
「そっちも、頑張って」
 にっと歯を見せながらも、また涙の滲んできたことに気付いた彼女はぎゅっと目を瞑った後、自転車に跨った。
 もう一度、彼女の視線が僕に刺さる。
 照れている場合ではない程の感情が頭を支え、今度ばかりは僕も彼女を真っ直ぐに見つめ返した。
「またね」
「次会うときはお好み焼き屋で」
 彼女は笑った。
 僕も笑っていた。



 彼女が大通公園の北の方へ消えていくのを黙って長い時間眺めていると、視界の端で、青いイルミネーションに身を包んでいたテレビ塔が、赤いライトアップへと切り替わっていった。

 涙が乾いた後の顔を思いっ切り手の平で拭う。

 彼女の手の温もりが残る手の平を見つめる。

 手を握ると、拳の中で、僕の恋心が眠りに落ちていくのを感じた。それは決して死んで無くなってしまったのではなく、小さくゆっくりと、呼吸を続けているような気がした。

 スマートフォンを取り出してメモアプリを開く。

・誕生日プレゼント

 文字を消していく。

・新しいシューズ

 上に書いてあったそれも、今から買いに行くのだから消してしまう。

 僕は自転車をぐるりと方向転換させて、大通公園の南の方へ向かって進み始めた。



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