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わたしとデザインと卒業制作

約半年を費やした卒業制作。
わたしは「農業という営み、仕事について考える」というテーマで「#1 東京」「#2 いま」「#3 姿勢」3つのシリーズからなる冊子『colere』を制作しました。東京都内の農家さん12軒に取材・撮影にご協力いただき、写真集的にも眺められるような冊子となっております。

この記事は卒業制作を行うにあったって、考えていたことのまとめのようなものです。

冊子内容は下記リンクから無料で閲覧・ダウンロードができます。

#1「東京」と農業(140p)
#2「いま」と農業(152p)
#3「姿勢」と農業(152p)



制作物のかんたんな紹介

冊子について

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「農業」は風土に寄り添う仕事です。
そして、風土は文化に大きな影響を与えます。

農業がどんな仕事かを知ることは、日本の「らしさ」を知ることや自分の生活を鑑みることにつながるのではないか。もしそうであるならば、私と同じデザイナーはもとより、同世代の、これからの日本を支えていく若い人たちも農業という仕事に理解があったほうがよりよい社会につながるのではないか。そんな考えからはじまった今回の制作。
『Colere』は東京に住む、若い人に「農業」という仕事を知ってもらうための冊子です。

『colere』はラテン語で耕すという意味です。
英語圏のcultivate(耕す)とculture(文化)の語源でもあります。
農作業の基本である「耕す」という行為。
農業と風土、そして「文化」との繋がり。
その2つの意味を兼ね備えた『colere』は今回の内容にうってつけだと思いました。


付録について

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取材させていただいた農家さんそれぞれの「1年」を記したパンフレット。農家さんの年中行事をまとめたものもあります。

農家ごと、時期ごとに生産する作物を可視化したことで、都市農家の「農家ごとにつくる作物に特徴がある」ことがよくわかります。また、冊子に掲載された「生産者一覧」と付録とを照らし合わせることで、冊子に、より実用的なカタログのような役割を持たせました。

円から各農園を覗くようなイメージで制作しています。


テーマが「農業」に決まるまで

何か大きなきっかけがあって、というよりも4 年間学び考えてきたことをそのまま形にしたという感覚の方が近いのですが、その過程を追っていきたいと思います。

デザインとの距離感に悩む
3年次の後期まで、デザインをするときには自分の「個」を可能な限り消した方がよいと思っていました。「アノニマス・デザイン」を履き違えた状態、個を消すことが目的になっていたのです。

「個」を消し「誰がやってもそうなる」を求めることは、究極には自分がデザインをやらなくても良いということで、自身も社会にとって必要ない存在なのかもしれないと思い悩んだりすることもありました。自分の気がついていることや、いいと思ったことは、多くの人が既に気がついている、あるいは形にしているのではないかと考え、自分がつくった物を公開することが恥ずかしく、とにかく自分の考えを伝えるという行為に緊張するように。

さらに、実際に企業と連携した授業でクライアントから「学生らしく、実現できなくてもいいから面白いアイデアを」「今までにない、個性的ななにかを」と言われるたび「ちゃんと実現できるものをつくりたいのに」とクライアントが求めているものとやりたいこととの差異を感じながら、一方でそれがクライアントの「デザイン」に対する期待、縋りたい気持ちからきていることも理解していたために、板挟みのような状態になることも多々ありました。自分は「派手な発想ができない」「アウトプットが下手くそ」「頭がかたい」「なにもできない」と苦しみながらデザインする。人との距離感もぎこちなく、ものをつくることも楽しくなくなってしまう。そんな時期がつづきました。

それでも負けず嫌いの私は、「ものづくりのどの段階においても『伝える』を怠ることができないデザイナーがこんな状態ではデザインをすることはできない。デザインをつづけたい。」と強く思い、デザインとの距離をはかりはじめます。


卒業を前に、デザインとの関係を改善したい
そして半年くらい考えたところで、自分なりにとりあえずの答えを出します。

これからのデザイナーに求められているものは、ククライアントの課題に対して最適な解を提案するという軸はそのままにデザイナーやチームごとの視点、強みをおりまぜクライアントの発想になかった解決策を提案することである。

「あ、自分がやってもいいんだな」と思えた瞬間でした。個々の視点を織り交ぜる。これは好き勝手に個性を追求するということではなく、その時できる手をつくした結果、自然と個性が滲み出て、よいものができる状態を理想とするということです。
そもそも、同じ本を読んでも人によって印象に残る部分が違い、さらにそれを誰かに伝えようとすると、解釈はそれを聞いた人に委ねられるというように、情報の伝達には毎度も「個人」というフィルターが入るので、「個」の影響を全くなくすことは出来ないのです。考えれば当たり前のことですが、それらを言語化できたことで、だいぶ気が楽になったことを覚えています。

デザインを課題の最適解を導くための思考法と捉え、誰にも同じ考え方がで
きるようにしようとひろく話題になった「デザイン思考」。しかし、それによって「型」にはめた、似たようなものが量産される時期があったように思います。多くの人が「プロセスを踏むこと」が目的になってしまい、あくまで「思考法のひとつ」であることを忘れてしまったことで、デザイン万能説のような雰囲気が生み出され、いろいろなものが「デザイン」に振り回された結果なのだと思います。

同様に、私個人もある意味デザインに振り回されている状態だったのです。
デザインは目的ではなく「一手段」という認識はあるつもりでしたが、デザインがこうであるならば自分もこうあるべきだ、というようにデザインが自身を縛るものとなっていました。


自分をつくるものを探す
自分の「個」を形成しているものを知ることができれば、自らの「支え」くらいにはなるのではないか。

4年次前期。ちょうどその頃熱中していたのが、畑で写真を撮ることでした。元々、ほとんど毎日フィールドワークという名目で外出をしていたわたしは、緊急事態宣言下で有り余ったエネルギーを発散できる場所を探していました。それが家業の畑仕事だったのです。毎日畑仕事を手伝いながら、その様子を写真に残しました。

以前から庭や出かけた先で植物の写真をとる癖があったため、畑で写真を撮りはじめたのも「なんかいいな」という理由です。しかし、そういった感情をもつ要因は、やはり幼い頃から畑に通っていたからなのかもしれないと思いはじめます。


ずっとやってきたこと、もう一度
「よいデザイン」は無意識に、継続的に利用されるために、意識しなければ気がつくことができない。そして、デザインは私たちの「生活」の中にある。そんな考えが強かった私は、在学中やたらと「生活」を意識していましたし、「生活」をテーマとした制作が多かったように思います。授業内で出題されたZINEを制作する課題では、自分の家やそこにあるものを見直すことで、こんなにも自身が住環境から影響を受けていたのかと驚くことになります。(余談ですが、在学中、家にたくさんあった絵本の印刷を行う工場を見学に行ったとき、何から何まで繋がってるんだなとうれしくなるなどしました)

そういえば、自身の生活について考える機会はあったけれど、実家の家業である「農業」について深掘りしたことはなかった。頭の中に「農業」の文字が浮かびます。


柳宗理とか民藝とか
わたしの「デザイン」の考え方の根底には、1年次の授業で出会った「柳宗理のものづくり」があります。その当時の授業課題も冊子制作でした。そこで学んだこと、お手本にしていたものは今でも私の基本です。

その後、デザインを学ぶにつれ、興味は柳宗理から柳宗悦に派生し、民藝運動や人々の営みに向かいます。
「民藝品」に目が行くようになったのも、やはり「ものと人、環境のつながり」や「最善を尽くした結果に出来上がった、作為的ではない雰囲気」を感じていたからだと思います。
そして、それらのことをまた深掘りしていったことで「私がデザインを行うにあたって必要だと思った姿勢、感覚はここから学べるのではないか。」「自ずと生まれる感覚に触れ、自分のものにしたい。」そう強く思うようになります。

柳宗悦『手仕事の日本』で紹介される民藝のなかには「農家の副業」として生まれたものが少なからず存在します。
やっとここで「普段の自分」と「デザイナーとしての自分」両方のアイデンティティ形成の根幹に「農業」がある、と頭の中で繋がったのです。


卒業制作が形になるまで

「農業」を見直す
世の中にデザインされていないものは存在しません。誰かがつくったものはさまざまな場所に置かれ、使われます。そのとき、人や環境がそのものから影響をうけるのはもちろんのこと、人も環境からも、ものに影響を与えます。どんなに「目新しいもの」が求められ、敬われる現代であろうと、あとから「今」を見れば、その当時の時代背景や環境に影響を受けていないものはないのです。

ものと環境には相互関係があり、さらには、そのどちらも普遍的ではないとなると、ものと環境がどう影響しあい、どんな効果を生み出すのかは長い時間をかけて観察しなければわかりません。
知人との会話や就職活動中など「最近のものでいいと思うデザインを教えてください」という話題が出てくるたびに趣味的なものはさておき、本当によいと言えるものは経過観察をしないとわからないものなのに、と思ってしまいます。どんなものをつくるとき、みるときでも、つくられる、使われる時代背景や環境を考えること、どっしりと構えて観察することが、必要なのです。

ものと環境はお互い影響しあうことで、よいことが起こることも悪いことが起こることもあります。特に公共のものをつくる人は悪いことが起こった場合、その影響がつくった本人だけでなく他の人にもかかってしまうかもしれません。ものをつくるということは、それだけ責任のある仕事なのです。

そんな「環境」「風土」に目を向けるということを「農」は当たり前のように何千年もつづけています。デザインも作物も単体で成り立ったり、育ったりするものではありません。自分だけがうまくできればいい、満足できればいい、ではつづけることができません。

農はものづくり、デザインにおいて大切にすべきことを理解しているどころか、当たり前のように長い間つづけてきた、すごい仕事だと思います。調べるうち、取材をするうち、その思いはますます強くなりました。

しかし、そんな私の持つ印象とは裏腹に農業に対するイメージ(評価)があまり芳しくない、または偏りがあるという場面に遭遇することも多々あります。
東京都内にも多くの農家さんがいるということもあまり知られておらず、同じ東京都内に住む友人にさえ「農業=田舎・のどかな場所」というイメージがあると言われました。さらには「農業はなんとなくダサいからカッコよくしてあげますよ」という姿勢で仕事をしたとしか思えない制作物が世の中に少なからず存在する現実すらあります。むしろ我々デザイナーのような人間は、農業から「学ぶべきこと」の方が多いのではないか、と強く感じます。

今後どの分野においても、ユーザーやクライアントの関係をいかに長期的に構築するかを考えていくことが重要になるはずです。いっときだけ売れればよいという考え方は通用しなくなってきます。とはいえ、いうは易しですが「つづける」ことほど難しいことはありません。農に携わる人々が行ってきた「繰り返すこと」「風土に対応すること」はそれらのヒントにもなると思うのです。


「農業のイメージ」について考える
よく「農業を広めよう!」「農業を若い人にも!」「農業は大切!」という呼びかけを耳にします。そもそも、皆さんは「農業」という言葉をきいて、どんなものをイメージするでしょうか。きっと、人によってイメージするものは違うとは思いますが、大体の人はその分野で目立つもの(メディアで流れるイメージ等)に強く影響を受けているはずです。
「デザイン」と聞いて、多くの人がポスターや洋服、パッケージなどを思い浮かべるのと一緒です。言い方はあまりよくないかもしれませんが、デザインにあまり興味がない人にとって、デザインが「まあ、何かをつくっているんだろうな」というイメージであるように、農業も「何かをつくっている」というような認識なのではないでしょうか。

「農業」という括りは当事者以外にとっては大きすぎるくくりなのだと思います。実際の農業は環境も作物も、働き方も経営方法も多種多様です。大袈裟に言えば「農業」が共通言語として成り立っていないために、「農業、いいよ」と言われてもうまく本質がつたわらない、アピールになりきらない部分があると考えました。

さらには、「農業」に漠然としたイメージを持つ消費者に対して、売る側(特に農業関連事業に新規参入した企業やブランディングを受け持つ会社など)があの手この手で商品を売ろうとすることで、余計にイメージが混乱するという事態が起きているように思います。
野菜への付加価値づけ競争が良い例です。有機栽培、無農薬の良さとは何か。AIで農場を管理することによって、生育過程の全てが数値化されることは本当に安心につながっているのか。生産者の顔写真で得られる情報とはどんなことなのか。もちろん、しっかりとした理由があって行われていることもたくさんありますが、「何かを加えること」が目的になっているような売り方も同じように存在しているのです。

たくさんの言葉が並べられたとき、果たしてその意味をしっかり理解して、食物を購入している人はどれだけいるのでしょうか。同じ言葉を何度も見たとき、また、新しい言葉が出てきたときはどうしても気になってしまうものです。例え本人が気にしていないつもりでも、しばらく頭の片隅にあると出どころを忘れていても、覚えている=意味があるはず=いいものかもしれないといつの間にか思うようになります。

言葉やイメージが散乱した状態。だから、まずは「農業とはなにか」なのだ、と思いました。何かを付け足す前に、一度整理しておくべきだと考えたのです。


基礎をかためる
デザインを勉強するにあたって最初にやったことといえば「デザインとは何か」を知る、考えることです。思い返してみれば、入学当初、様々な講師から「デザインってなんだと思いますか?」と同じ質問ばかりをされました。質問に答えなくては、とあれこれ捻り出すうちに自分の中で「いつもの返し」みたいなものがつくられていったように思います。
「何か」は人によって違うこともありますが、それでも自分の中に基準(こたえ)がなければ、比較もすり合わせもできないどころか、違いにすら気がつくことができません。

本当の意味での「入門」をやりたい。
収穫体験や、古民家を用いて農家の暮らしを体験できるというようなビジネスモデルがあるではないかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それらは「入門」とはいえない存在であることがほとんどです。というのも、その体験の先にあるものも「非日常」だからです。
「非日常」は繰り返し、再現性が生まれることで「日常」になります。過程の一部だけを切り取って行われたことを、のちに通しで再現しようとすることは困難です。作物を育てるだけでなく、人や環境、考え方などを含めて「農」は形成されています。そして、それらを知ってもらうことが「農業の入門」になるのです。

農業は毎日の生活と深い関わりのある仕事であり、作物は日々消費されるものですから、「繰り返し」がものをいいます。一度つくったら終わりではありませんし、つくったものがそのまま一生もの、とはなりにくい分野です。

卒業制作において「農家のブランディング」を避けたかったのもこの理由からです。購入したブランド品が壊れてしまったとき、いわゆる「ブランド好き」の方は新しい、別の商品を買うと思います。それでは、野菜の場合はどうでしょうか。同じ農家から何度も野菜を買う理由は「有名だから」「かっこいいから」でしょうか。もしそうであれば、農家はずっと消費者が驚くような、楽しくなるような「価値」を産み出しつづけなければなりません。農業におけるブランディングでの成功は広報に力を入れたことや目につくパッケージにしたことによって、元々低かった認知度が向上したためであると考えられます。問題はその後です。それをつづけることができなくなった場合はどうなるのか。また、つづけるために無理をしなくてはいけないとなると、それは消費者とよい関係を築けているとはいえないと思うのです。

刹那的な関係ではなく、長い関係を持つためには、やはり基礎が重要になってきます。基礎を伝えることができれば、消費者の普段の生活での視点、見え方に変化を与えることができます。その結果、身近な農家に気がつくかもしれませんし、農家から直接野菜を購入せずとも、普段の買い物や行動に農家にとってプラスになるような変化が起こるかもしれません。そして、農家にとってプラスになることは巡り巡って、私たちにもどってくるはずです。

無理をせずよい関係をつづけることができる方法を探し、(一生つききりでできるのであればそれでもよいのですが)時と場合によっては指揮する人がいなくても行動ができるようにあらかじめ準備しておく。それがデザイナーの役割だと思います。


肌で感じたことが資料になる
メディアで取り上げられるのは珍しい品種を扱っているなど、個性の強い農家さんばかり。情報も断片的です。それはそれでおもしろいものですが、レギュラーが存在し、全体を支えているからこそのイレギュラーですし、メディアで取り上げられない農家さんにも固有の歴史、ストーリー(というと少し安っぽいですが)があるはずです。
しかし、農業について調べていく中、農家についての資料が少ないことがわかります。やはり農家はいて当たり前の存在となっていることや、毎日消費されるものを作っている点で資料が残りにくいのかもしれません。そのため、情報は足で稼ぐことに。頼みの綱はアンケートと直接の取材でした。


取材先を決める
取材先については、東京都内の農家さんに限定しています。理由としては実家が農家ということで、まずは私自身の身近なところから知っておくべきだと考えたため。「農家」でも都市部か地方か、土地柄や環境によって作物や育て方、経営方法などに大きな違いがあり、一括りで「農業」と紹介することができないため。農家の中でも特に都市農家に関する資料が少ない上、都市農家に対する誤解や偏見が多いことが目につき、なんとかしたいと考えたため。と、ざっくりと3つの理由があげられれます。

わからないことがあれば、とりあえずネットで検索する時代。検索してヒットしないものは、存在しないものと判断されてもおかしくありません。
取材中はこんなにも魅力的な場所、話があることが世に出ていないことがもったいないと強く感じることばかりでした。都市農家の「今」を残すことができた。それだけでも、卒業制作でこのテーマを扱う意味があったと思います。


淡々とやる
今回一番注力したことは、「フラット」に「淡々と」伝えることです。「農業、尊い!」という気持ちは持ちながらも、伝える側がヒートアップしてしまうと、見ている側に圧を加えてしまいますし、1人でもりあがっている姿を見るほど白けることはありません。なので「こんな感じでした。」と報告するような温度感を目標にしています。また、「農業」に肩入れしないが故に「農業で大変な部分」も隠していません。(あまりにキラキラと楽しそうな雰囲気だとむしろ嘘っぽい感じがしますよね)
今思えば、特別なことをしなくても、飾らなくても、農業の中身は魅力的だという自信があったからできたことなのだと思います。


最後に
卒業制作を行っていくなか、農家さんの「ふつうのことを、ちゃんとする」姿をみて、私自身も農業への見方だけでなく、自らの生き方をも正されるような気持ちになりました。早く、たくさん、何かをしなくてはいけない、何かを足さなければいけない、と焦りを感じる世の中。「足すもの」がよいものでも「足されるもの」が疎かな状態は、よい状態とはいえません。土台に耐久性がないものは長くはもたないからです。そもそも大切なことはなんだっけ、手段と目的が入れ替わっていなかったっけと一度立ち止まることが必要なのです。(その点、外出自粛は役立っているのかもしれません)

写真を眺めるだけでもよいので、とにかく一度冊子を開いて、見ていただきたいと思います。そして、この冊子があなたの農業に対する関心を「耕して」くれることを願っています。


ご協力いただいたみなさまへ
このような大変な状況下で取材を受けてくださったみなさま、制作にご協力いただきましたみなさま、誠にありがとうございました。貴重な時間を過ごさせていただきましたこと、重ねて御礼申し上げます。
私の中の「デザイン」の基礎や「個」の基礎と「農業」の関係に気がつき、実際にそれらをつなぎ合わせることができたという事が、私自身の1番大きな収穫だと思います。それによって、やっと自分のものづくりの方向性はこれでよかったんだ、これでいいんだ、と思うことができました。「原点に戻ろうとして、真の原点を発見した」という感覚です。皆様のおかげで、今後もデザインをつづける事ができるといっても過言ではありません。本当にありがとうございました。
そして、『Colere』の名前の由来のように、私がやっていることはまだまだ「耕す」段階にすぎません。農業の基礎に触れた程度です。この題材は今後も継続して取り組むべきものであり、私にとっては一生の付き合いになる題材でもあると考えています。引き続き邁進して参りますので、今後ともご指導ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。


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写真は展示用に制作したダイレクトメール。
日本人の主食、稲穂の写真を採用した。(縁起もよさそう)

【東洋美術学校 第72回卒業制作展】
会 期:2021年2月5日(金) – 2月10日(水)
時 間:9:30–17:30(入場は17:00まで)
    ※初日の2月5日(金)は14:00開場となります。
場 所:東京都美術館 ロビー階第1・2展示室

ご注意:
美術館では感染症予防のため、展示物等触ることができない状況です。お客様が冊子を手にとる事ができないということで、展示は冊子ページの抜粋、全内容は展示台に設置したQRコードからデータで閲覧していただく形となります。
また、ご自宅にいながらも制作物をご覧いただけるよう、PDFデータの公開(閲覧・ダウンロードともに無料)を行っておりますので、美術館へのご来場についてはご無理なさらないよう、よろしくお願い申し上げます。おいでいただく際にはくれぐれもお気をつけて、お身体にはご自愛ください。


個人的な4年間の情報処理・思考方法の紆余曲折をまとめた記事はこちらより。
(少し古い記事です)

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