うさおばけ

石にもなるし神にもなるおばけ

 この記事は、個人的な「情報処理とその運用、思考方法」の変遷をまとめたもの。

2017
 自分以外の思考、感覚、そのほか諸々の情報を吸収しすぎることで、混乱していた時期。ノイズが多い環境への変化や、今まで出会ったことのないタイプの人に囲まれた生活を始めたタイミングで、その変化への応急処置が「自分自身の解像度を下げる」だった。

 デザインの軸は人間の営み、生活にあると考えているので、人が感覚的に(ぼんやり)ものを捉える姿勢を普段の生活で行なっているのならば、それをものづくりに活かさなくてはいけないと思った。普段物を使うとき、その物の形やデザインをはっきりと捉えている人は少ないと思う。もしかしたら作り手もぼんやりしていた方が、使い手にとってよいものが作れる場合もあるかもしれない。物や、時と場合によるとは思うけれど。(過去のnote記事より)

 「物理的に入ってくる情報も削ってみては?」という思いつきから、眼鏡をほとんどつけない生活を送る。(不便)
 この段階では一度解像度を下げると、頭にモヤがかかったような感覚になり、容易に解像度を上げることが出来なかった。眼鏡もかけなおさないといけないし。

 「混乱した状態」というのは、パソコンのバックグラウンドで、使っていないウィンドウが何個も開いているような感覚だった。情報の処理能力が追いついていなかったんだなぁと思う。自分でもそのウィンドウを覗くことはできなくて、何をそんなに考えているのかわからなかった。
 このときは「開いているウィンドウを閉じれば頭の中が整理される」と考えていたので、「解像度を下げた状態」はウィンドウを全て閉じる(どころかパソコンをシャットダウンするくらいの勢いだったのかもしれない)ことを意味していて、作業をはじめるたびにウィンドウを探し、開く作業をしていたことになる。そりゃ立ち上がりにも時間がかかるわけだなぁと思った。

2018
 「他人をぼかして捉える」の応用で、より人間としての存在(特徴?)をころし、「他人を物体として捉える」ようになる。他人の思考や感覚が自分のそれと混ざることがほとんどなくなり、情報の処理落ちをすることは減った。
 かわりに、その時期の制作物は、精度が明らかに下がっていたような気がした。他人を「物体」としてしか捉えていないので、「共感力」がほぼ欠落した状態であり、そんな状態で「デザインをする」ことは無謀だったと今でも思う。他人の話はほとんど耳に入っていなくて、個人の殻にこもっているような感覚。完全に社会と自分を切り離していたわけではないけれど、ギリギリのラインを責めていたかんじもあったので、孤独感や、自分が社会から取り残されているのではないかという不安があった。
 制作の精度が下がっていることが自分でもわかっていたので、なんとかしなくてはと思っていた矢先、建築家やプロダクトデザイナーが図面を書くときのものの見方に興味を持つ。

だからそっち方面の勉強をしている方は早い段階から物を俯瞰で見る力や、人の動線を予測する力が大切だということに気がついているのだろうなと羨ましく思う。数値的なところから感覚的なところに行くだけでも難しいのに、家を作るときはその感覚を行ったり来たりする必要がある。(過去のnote記事より)

 図面は平面的な情報と数値で成り立っているけれど、それを書いている人は、自分の感覚や経験も組み合わせながら考えていると感じた。

 人に寄り添うデザインをつくるためには、数値的には問題ないけれど感覚的には無理があるという状態に気がつかなければいけない。正解を記号的に表す(仮の代表を立てる、簡潔な表現で言語化する)ことは簡単だけれど、ニュアンスの部分が抜けてしまたりする。(過去のnote記事より)


2019
 図面を平面、数値で捉えることと、たまに自分の世界に入って(?)「図面を立体に起こして、自分をそこに置いてみる。立体に起こしたものを触ってみたり、その中を浮遊して全体を見渡したりする。」というようなことを繰り返す。このフランクな視点の入れ替え方が「夢の中でよくある、第三者目線で自分を見る感覚」に似ていることに気が付く。
 今まではどちらかと言えば「他人を押しやって距離を取る」ような方針だったけれど、「自分が離れたり近づいたりすればいいんだなぁ」と思うようになった。

〈追記〉
今思えば、中村好文さんの住宅設計講座を受講したとき、実際に中村さんの設計したお家を見学する機会があったお陰で感覚を得ることができたように感じる。

居間が吹き抜けになっているお宅の2階から1階をのぞいて、そこで動いている人たちを眺めていたら、場所やそこにいる人の生活を俯瞰してみるとこんな感じなんだろうなというイメージが掴めた。
設計図面と実際のお家を見比べることができたことも大きい。

 そして、諸々の実験を経て、現在の幽体離脱的な感覚を運用することによって、情報の吸収量のバランスをとるようになる。幽体離脱中は前述したように「夢の中で自分を眺める第三者目線」の状態に近くて、ゲームのようにアバターをどこか安全な場所から「遠隔操作する」ような感覚とは、少し違う。全く別の人間でもないけど全く同じ人間でもない。だから、目の前に見える自分を好き勝手に操作することはできない。(抜けたり入ったりすることは確かなんだけど、ちょっと、いまだけ、置かせてもらうよ〜くらいの感覚。それゆえか、従来の方法に比べると使うパワーも少ない気がする。)

 「幽体離脱的な感覚」を使うと、身体をそこに残して、感覚だけを浮遊させることになるので、他人から見ても不自然でない状態で距離がとれる(物理的にはそこにいる)し、他人の言動もちゃんと受け取ることができる(他人の言動をぼかしてもいないし、動かない物体として捉えているわけでもないので)。
 さらに、感覚を「彼方に」飛ばしているわけでもないので、「校長先生の話を聞いているようで聞いていない状態」とも違う。自分の身体と他人を第三者目線で見られる場所に、感覚を浮遊させている状態。意識は自分の体と同じ空間にある。
 例え嫌なことを言ってくる人がいても、感覚を浮遊させることで、自分の精神には直接相手の言葉が作用しないようにすることができる。自分(2号)に突っかかる他人を第三者目線で見ることになるので、その人の言動と今の自分について、冷静に見聞きすることができる。他人の言動をダイレクトに受け止めなくて済むので、必要以上に精神を病んだりしないし、自分も相手も客観的に見られるので、思考が一辺倒になる可能性も低い気がする。

 「幽体離脱的な感覚」は元々「図面の情報や自分の感覚を行き来する、時に混ぜる」という建築家のものの見方を真似たものなので、情報の吸収量の調整もさることながら、「解像度」や「視点」を変えてものをみるということにも利用できる。行ったり来たりが簡単にできるので、「道端の石から神にもなる」というような大幅な視点や感覚の変換を短時間で繰り返すことができる。
 デザインをしていく上で、「そのほか大多数」を無視することは不可能で、なんなら「そのほか大多数」のためにつくらないといけない。でも、「その他大多数」の視点だけを手に入れて、使うだけでは足りない場合もあると思う。たしかに、デザイナーはユーザーのことを考えた仲介者であるべきだけれど、「ユーザーの感覚に寄り添って、情報を流す」だけでは、「流れが良くなった」という結果を生み出すことはできても、「だれも知らなかった流れの良さ」を生み出すような発見をすることはないのではないかと思う。(もちろん、課題によってどの「流れ方、流し方」が正解なのかは違うので、デザイナーはそれを見据えた解決策を提案する必要がある。)
 これは個人的な経験、感じ方かもしれないけれど、ユーザーの視点や感覚に寄り添いすぎて、その「視点と感覚」しか使えない時期があり、ずっとユーザーと同じ目線にいては、課題解決はうまくいかない(見つからない)場合もあるのだなと感じた。
 だから私自身は、時には上から、時には下から、たまに同じ目線から、というように自由に動けるような状態にいなければいけないのだなと思う。それこそおばけのように浮いたり、すり抜けたり、もぐったり、もっと立体的な視点や感覚を自由に使えたら良い。
 様々な視点や感覚を持って、使い分けたり、時には全部使って広範囲に探りをかけたりすることで、課題解決の糸口を発見するまでの時間が短くなったり、はたまた全く新しい解決策を見つけたりできるのではないか。「ユーザーを置いていきすぎるデザイン」というのは、ユーザーを置いていきすぎる視点を継続するからいけないのであって、どのくらいなら「置いていかれたと感じさせないのか」を探ったり、視点の行き来、変更、調整をすれば良いのではないかと思う。

 それから、情報処理、頭の中のウィンドウの整理については、基本的にウィンドウは開きっぱなしにして、わざと少しずつ稼働しっぱなしにするという方法で入ってきた情報や現在進行中のタスク管理をするようになった。
 今まで開きっぱなしのウィンドウは重ねて置いておくイメージで管理していたけれど、「ウィンドウが自動推移するようにする」または「各ウィンドウのサイズを小さく表示する」ことによって、「積んでおく」のとも「フォルダごとに整理して、使うときは探す」のとも違って、常にいろいろなウィンドウをざっくり把握している状態になった。複数、しかも長いスパンでの課題が重なっても対応できるようになたのは、この管理方法に変えたことが大きいと思う。(ちなみに、眼鏡をかけ続けてもつかれにくくなって、1日中つけていることが多くなった。)


 3年間を振り返ってみると、自身の感覚や思考の手綱を握りかけているような気もする。(どこかで一度、手綱を手放したのか、それとも生まれてからずっと見つけられていなかったのかわからない。普段からすぐ物をなくすので自身への信用がない。いい加減にしてほしい。)

 現状はこの通りだけれど、もっと効率的で上手な情報処理の方法、感覚の使い方があれば教えてほしいなぁと思う。誰か。

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