【創作】異世界エッセイ3 不調

 朝起きたら、左手の肘から下が緑色の鱗に覆われていた。爪も鋭く尖り、黒く光っている。拳を握ったり開いたりを何度か繰り返したが、手そのものは問題なく動くようだった。しかし、皮膚の内側に、ちくちくするような、なんとも言えない痛みを覚える。

 自分ではどうにもならないので、病院に行った。医師は、しばらく私の手を観察して、
「ノウム体がかなり揺らいでいるようですね。それで、ご職業は」
私はやや躊躇って、作家です、と言った。医師は、眼鏡を人差し指で持ち上げて、
「ああ、なるほど。結構多いんですよ。作家とか、音楽家の方で、ノウム体の揺らぎで受診されることが」
医師曰く、創作に関わる職業についていると、ノウム体が共鳴する回数が人より多いためか、揺らぎも大きくなるらしい。
私が、手は元に戻るんですかと尋ねると、
「それなら心配ありません。ノウム体を調整すれば、戻りますよ。このままだと境界が歪んでしまいますからね」
医師は簡単な質問をいくつかして、私はその後、同意書にサインをした。

 私は、施術室という部屋に案内された。看護師がドアを開けると、そこは、ベッドが中央に置かれている薄暗い部屋だった。枕元には一本の、高さ1メートルほどの円柱が立っている。こんなに大掛かりな人工共鳴機は初めて見た。
「靴を脱いで、ベッドに横になってください。眼鏡はこちらでお預かりします」
 私は指示に従って、眼鏡を外して看護師に渡した。固くて狭いベッドに寝る。別の看護師が、薄い布を私の体にかける。顎のすぐ下から爪先まで、すっぽりと覆われてしまった。
「目を閉じて、楽にしてくださいね」
看護師は、人工共鳴機のスイッチを入れてから、部屋を後にした。
 ドアが閉じられると、ぐわん、と脳が揺さぶられた。頭痛がする。真紅の水牛が、顔の真上を飛んでいく。緑色の花びらと、黒い葉が舞う。人の笑い声がしては、沈黙が訪れる。それが等間隔で繰り返される。
 どれくらい続いていたのか、もう思い出せない。ただ気づくと、鈍色の海に漂っていた。
 海に沈んでいく。私の隣を、目の大きな魚、目のない魚が通り過ぎる。七色に光る蛸が、檸檬色の墨を吐く。際限なく沈み切ったと思ったら、何かに手を引っ張られて、上昇する。そこで私の視界は暗転した。
「はい、お疲れ様でした」
声のした方を向くと、看護師が、私の眼鏡を持って立っていた。起き上がって眼鏡を受け取る。頭がまだ、ぼんやりとしていた。ふと左手を見ると、鱗は消え、元に戻っていた。
「今日はなるべく、外部からの刺激を避けてください」
看護師は、私が使っていた薄布を畳んでいる。施術室を出て、会計を済ませて、家に帰った。
 看護師に言われた通り、その日1日、なるべく音楽を聴いたり動画を見たりすることは避けた。そして夜、不思議な夢を見た。
 大きな門が開き、光が溢れる光景。見たこともない景色なのに、匂いまで、ありありと分かった。否、元から私の記憶の中にその光景はあったのだ。深い深いところ、思い出すことさえ難しいような場所に——

 私は、目を覚ました。いつもと変わらない心室。太陽の光も、畳の色も、花瓶の場所も、昨日と寸分狂いなくただそこにある。ああ良かった。今日も、いつもと変わらない日常が始まる。



筆者は正気です。ご安心ください。
真紅の水牛のくだりは書いてて楽しかったですね。今後はもっとリアリティを追求していきたいです。