見出し画像

その「一瞬」を感じたい

トップレベルで、サッカー選手としての人生がいつまで続くのか?

あと何年、何ヶ月、何週間、何時間、サッカー選手でいられるのか?

いつか辞めたいと思うのかもしれない。
続けられる状態ではなくなるのかもしれない。

Never knows.

サッカーを自分の「意志」で続けているのか、または、さまざまな要因が重なって「続けられることができている」のか。それとも他に選択肢がないから続けているのか?

サッカーが本当に自分のがやりたいことなのか?

これを本気で自問自答したのは、正直言うとほんの数年前。自問自答したというか、「させられた」に近い状態だったと思います。

そんなすぐに出る答えではなかったし、自分一人で考えているだけでは解決できる問題ではありませんでした。

それでもサッカーと向き合わなければならない毎日はやってくる。そんな状態でした。

オフになれば友人の紹介でいろんな方につないでもらい、とにかく色んな人に会って話をして、自分がどんな人生を歩んできていて、これからどうしたいのか、自分にはどんな武器があって、何に情熱をもっていて、何が得意なのか、、、とにかく自分をより深く知るために色んなところに足を運びました。

そして、何度も何度も自分のあらゆる感情、思考を毎日ノートに書きなぐる。

そんなことを1〜2年くらい繰り返し、その間に環境の変化もあり、自分の心に大きな変化を感じるようになっていきました。

私は本当にサッカーが好きか?

身体の痛みや不安なくプレーできることは本当に幸せで、毎日ピッチの上でボールが蹴れるという当たり前のようで当たり前ではないサッカーの根源である部分に、以前よりも大きな喜びを感じるようになりました。

サッカーを始めてから26年。

人生の大半の時間を「サッカー」に費やしてきたことになるわけですが、なんとなく始めたサッカーをなぜ続けているのか?

長期離脱を強いられる負傷をしたり、心が傷む想いや嫌な経験をしてもなぜ続けるのか?

そこまでしてサッカー選手にこだわる理由はどこにあるのだろう?

「本当にサッカーが好きなのだろうか?」――この問いに対して「YES」と言い切れない自分がいた時期は何度かありました。

自分の人生を生きていない

兄妹の影響でサッカーを始めてから自然とサッカー選手を志すことになり、サッカーのある生活が当たり前だと認識するようになり、中学生の頃に掲げた目標の通り、サッカーで稼げるようになりました。

W杯優勝、準優勝、オリンピック銀メダルを経験し、ドイツに渡ってからも、ブンデスリーガ優勝や、チャンピオンズリーグ優勝、リーグ得点王など、目標にしていたことをほぼすべて成し遂げました。

その後はイングランド、アメリカと、一カ所に留まることなく常に変化と新たな刺激を求めて環境を移してきました。

もしかしたら、イングランドに渡ったあたりから「目標」に対する感じ方に変化があったのかもしれないと、今振り返ると感じることがあります。

自分の人生を生きていない」と思う瞬間が今まで何度かあって、その度に苦しさを感じ、他人の評価の上を生きていると感じる時期も正直ありました。

インタビューなどで目標を聞かれても、インタビュアーが求めている答え通りの言葉を並べていたときもありました。

目標を立てて、それを目指すことを強要されているような感覚もあったり、環境に縛られて自分が自分でいられないことに苛まれ、目標が見つからず浮ついた気持ちのままサッカーをしている自分に対して嫌悪感を抱きました。

そして、このまま仕事としてサッカーを続けるのは、何よりもサッカーに対して失礼だと感じていました。

そんな自分の気持ちをどうにか整理しないとこのままサッカー人生を歩んではいけない気がして、タイミングが上手く重なったこともあり、アメリカの地に渡る選択をしました。

何も期待せず、まっさらな気持ちでシカゴでの生活をスタートしようと心に決めて数カ月が経ち、そこには周りの評価を気にせず、ただ純粋にサッカーを含めた人生を楽しんでいる自分がいました。

今までにない感覚というか、“こんな気持ちでサッカーに向き合ったことが今まであっただろうか?”と思うほど、新しい景色を見ているような感じがして、とても不思議な感覚でした。

目標と目的と心

ふと思ったことがありました。

「もしかしたらこれまでの人生、目標に依存してきたのではないだろうか?」と。

サッカー選手になってW杯やオリンピックで優勝したい、海外リーグで活躍したい。

子どもの頃から周囲に目標ばかりを求められ、目標を持ちそれを目指すことは当たり前という認識になり、なぜそれを目指すのかといった「目的」という大切な部分に関しては触れられず、目指す理由を考えずに、ただひたすら目標を達成することだけを考えて行動し、生きてきたのではないかと。

2016年3月にリオデジャネイロ五輪出場権を逃し、今までに経験したことのない喪失感を味わいました。

何かぽっかりと穴があいてしまったような感覚で、それが「何か」というのは正直、そのときはわかりませんでした。

組織で一部の力のある人間に評価されれば、それである程度はそこでの安定した生活を手に入れることができると思います。

人のことは考えずにただ自分の立場を守るため、自分の稼ぎのために手段をいとわない人も、これまでの海外生活で数多く見てきました。

目標に振り回され、目標に依存し、生きる上での目的を見失い、お金に左右され、お金に振り回され、それで人間関係がこじれることほど不幸なことはないと私は思っています。

そして、自分の中で納得のいく答えにようやく辿り着きました。

『自分が思う価値を大切にして、自分の人生を生きる』

「自分の道を進む」「自分の人生を生きる」って、好きなことをやっているから基本的には楽しいのだけれど、かといって楽なことって意外となくて、他人の評価にさらされながらも自分自身の目指す表現との戦いの連続で、ときにはいろんな葛藤がつきまといます。

周りの雑音や評価が気になっているときは、自分のすべきことに集中しきれていないことがほとんどです。

ひたすら自分のやるべきことに集中し、毎日仕事への準備を繰り返し、自分を表現し続けることができるようになると、不思議と雑念が消え、日々の生活が充実したものになると実感するようになりました。

そして、人が喜ぶプレーをしたい。

そう思うようにもなりました。
これは、大きな大きな変化でした。

積み重ねた先にある、未だ見ぬ絵を見たい。

その一瞬だけその空間に描かれるアートを感じたい。

その一瞬のために、何時間も何日も何ヶ月も積み重ねる。

まだまだ、さらなる高みへ。

一歩先へ。何度でも。

みんなが協力しあって生きていける社会へ。愛と共感力で、豊かな世界を創っていきたい。サッカーが私にもたらしてくれた恩恵を、今度は世界に還元していきたいです。