見出し画像

112. "人はみな、自分の靴のサイズで物事を計る"

先日読んだ本の中に、20世紀最大の理論物理学者とも呼ばれる、アルベルト・アインシュタインのこんな言葉が書かれていた。

どうして自分を責めるんですか?
他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、
いいじゃないですか。

たしかに人は、自分を責めすぎる。

たいていの人は、何か失敗をおかしたとき、真っ先に自分自身を責める。スポーツでも、仕事でも、人間関係でも、「俺があのミスをしたから...」とか、「なんで俺はこんなこともできないんだ」といった思考になる。特に、物事がうまくいかない時ほど、このように自分で自分を苦しめる行動は多くなっていくだろう。

そういった行動は、どんどん自分を傷つけていってしまう。

僕は、メンタルには体力ゲージがあると思っている。キャパがあるのだ。人によってその大きさは異なれど、必ず限りがあると思う。

何かでミスをしたり、物事がうまくいかなくてダメージを食らった際、体力ゲージは確かに減ってしまう。だからと言って、その自分に追い込み攻撃をかける必要は全くない。自分自身にパンチやキックを与えて、わざわざ残りHPをさらに減らす必要は絶対にないはずだ。

これは僕の個人的解釈だけど、「責める」と「反省」はおそらく違う。

責めるという行動は、単に苦痛を与えることであり、

反省という行動は、自らの言動をかえりみて、可否を考えることだ。

つまり、反省というステップにおいて、そもそも自分の可否(良いor悪い行動をしたという認識)を導き出した時点で、そのあとの責めるというフェーズまでわざわざ自分から入っていく必要はないと思う。

反省という枠を通り越して、自らを責め始めたときに、人は必要のないダメージを自分自身に与えてしまうのではないだろうか。

つまり、「反省エリアをできるだけ超えないようにする」というのは自分を守るためのスキルの一つなのかもしれない。そして、物事を長く続けるための一つのコツでもありそうだ。

もちろん、「物事がうまくいかない時間」を通して学べることや、身に着けられるスキルは実際に多くあると思う。僕自身も、ホッケー留学を通して数えきれないほどの失敗や挫折を経験してきたけど、そういった日々があるからこそ今の自分がある。これは断言できる。たしかに成長に不都合は付き物だ。

僕は、「成長したい」と願う人にとっては、困難に直面している時間はとても価値の高いものだと思っている。難しい状況を乗り越えてこそ、より高いレベルに進むことが出来るのは、どの世界でも同じことだろう。

ただ、これは「乗り越えられれば」の話。ゲームの中ならば、体力ゲージが少ないからこそ、発揮できる技もあるかもしれない。でも、人の一生は別だ。ゲージが完全になくなってから、やりなおすことはできない。

僕は、自分の通ってきたやり方が絶対に正しい道だとは全く思わない。そもそも、成長にとらわれることは必ずしも幸せを招くものではないと思っている。

もう一つの言葉

人はみな、自分の靴のサイズで物事を計る

これは、同じ本の中で見つけたもう一つの言葉だ。人は、無意識に周りと自分を比べてしまう。どれだけ自分自身の成長のみに視点を合わせようとしても、自分が持っていないものを保持している人を尊敬のまなざしで見てしまうし、自分にはできないことをいとも簡単にやってのける人には嫉妬心が生まれる。自分が必死に頑張っている中で、だらけている人を見たら「俺がこんなにやってんだからちゃんとやれよ」という感情が出てくるだろうし、逆に必死に頑張っている人を見たら、「俺はこんなところで何してるんだ」と思ってしまう。これはもうどうしようもないことなのかもしれない。人はそういう生き物なのかもしれないし、このバイアスからは絶対に逃れられないのかもしれない。

でも、だからこそ、自分にとっての幸せとは何なのか、何に対して自分は幸福感を覚えるのかということを強く認識しておくべきだと思う。

それはお金をたくさん持つことなのか、友達と話している時なのか、本を読んでいる時なのか。自分と対話し、自分を幸せにしてくれるものは何かを見つけることは絶対に大切だ。

おそらく現代は、過去に比べて、自分が目にしなくてもよい情報が自然と入ってきてしまう時代だと思う。本来ならば知る必要のなかったことでさえ、自分の頭の中に入ってきてしまう時代。現代の私たちは、そういった目まぐるしいほどの情報の波に飲まれ、自分にとって本当に大切なものを見失ってしまいやすくなっていると思う。現代の世の中の構造上仕方ないことなのかもしれないが、逆を言えば、自分が何か発信をすることは誰かにとっては役に立つ一方で、誰かにとっては不要なものになることを忘れないようにしたい。

世の中を見ると、「こんなつらい経験を乗り越えて私は○○になりました!」とか、「目標を叶えるには絶対に○○すべきだ!」という這い上がり系のエピソードがあふれていたり、中には「~なのに○○していない人はありえない!」といった、人格までもを否定するようなメッセージを発する人もいたりするけど、それはその人がそういう生き方を勝手に選んだだけであって、その人と同じ生き方を選択していないあなたが卑下される理由には絶対にならない。はたして、本当にその人は自分が目標にすべき人なのか、本当にこの人を参考にすべきか、ということはよく考えた方がよいのかもしれない。

スポーツでも、ビジネスでも、どんな分野であれ自分に厳しくいることが美学とされることはよくあるけど、心のどこかで自分が自分に優しくいてあげることは「生きる」上でとっても大事なのでは、とつくづく思う。これを読んで、「そんなの甘いやつの考え方だ」と思う人もいるだろう。強い人はいい。でも、全員がそういうわけじゃない。

人はよく、「チャレンジしているあの人はすごい」というバイアスにとらわれる。それ自体は悪いことではないけど、そのあとに「あの人はすごい=自分はすごくない」という思考になってしまうのはきっと間違い。他人と自分を比べすぎるのは、結果的に自分を痛めつけることになってしまう。

僕が挑戦を続ける理由は様々あるけど、最も奥底にある思いは、なによりも挑戦をしてるその瞬間が好きだからだ。ただ、それだけ。

絶対に自分にとっての「幸せの定義」を見失っちゃいけない。

自分を責める必要もないし、自分を卑下する必要もない。他人と比べる必要もない。

なぜなら人は、自分の靴のサイズでしか物事を計れないのだから。

自分の靴のサイズの「幸せ」でいい。

もっと、自分に優しくいようね。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?