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10年越しに推しを見つけられたオタク

以前「新しい作品を見ても推しができない」という内容の記事を書いたが、遂にとある作品の中に推しを見出すことができた。なんと10年ぶりである。

他のオタクたちがどんな風に推しを愛でているか分からないが、私は基本推しは1人である。複数作品にわたったり複数推しがいる状況にはなったことがない。そのキャラだけを心に描き続ける。良く言えば一途であり、悪く言えば粘着質だ。

ここ10年の間メンタルがやられていたせいか、いやメンタルがやられていたからこそなのか、推しが更新されず同じキャラを愛で続けていた。10年も1人のキャラクターに執着しているとか、改めて書くとちょっと気持ち悪い感があるが、実際他の作品を見ても推しは見つけられなかったのだし、とにかく私のオタク人生においてそういうフェーズだったのだと思うことにしている。

しかし新しい推しが見つかった!ヨシ!とはならなかった。というのも推すのが非常に苦しいキャラクターを好きになってしまったのである。置かれている状況が辛すぎるし、目的も叶わないし、何より10巻で死んでしまった。物語としてはまだ中盤に差し掛かったところなので(多分)、推し亡き今これから作品にどう向き合うか考え中である。

これは私の癖(へき)なのだと思うのだが、今までの推し達も裏切り者だったり、最終的に失踪したり、エンディング死したりしている。なぜだか分からないが、そういうダークな要素を持ったキャラクターにばかり惹かれてしまう。そしてそのキャラが得られなかった幸せな情景を妄想したりする(そして一人でニヤニヤする)。

そんなん最初から幸せな、少なくとも死んだりしないキャラを好きになればいいじゃんと自分でも思うのだが、癖というのはそうしようと思わずとも気付いたら身に付いているものだし、大体が矯正不可能である。むしろ死に様を見てから好きになるまである。

今回の推しがまさにそのタイプで、鮮やかなストーリー展開の中、あまりにも綺麗に殺されてしまった。流れるように人が死ぬと言われている作品の中で、丁寧に丁寧に伏線から死後の描写まできっちり作り込まれていた。確実に最初から死ぬことが決まっていたキャラ造形である。

死んでしまうキャラを好きになるのは辛い。生存ifや生前をいくら楽しく妄想しても「いや、でも、死んでるじゃん?」という幻聴が必ず刃物を片手に追いかけてきて私のメンタルをズタズタにしていく。ニヤニヤしていても数秒後にはゲロ吐く直前みたいな顔になってしまう。

こんなんもうセルフ精神DVである。推しの事を考えることがメガンテを唱えることと同じになってしまっている。もうすでに私の脳は破壊されてしまっているのかもしれない。

しかし考えずにはいられないし、何より推しの事が好きなのだ。やはりどんなものであろうとも、好きなことがある事自体が尊いものだと私には感じられる。

それに、自分で自分の頭の中を破壊できるということは、その分私が元気であるいうことでもある気がする。本当に気が滅入っている時は何かを入れる少しの余白もないものだ。そう思うと、やはり推しという存在はトータルで見てプラスである。

推しがいることを喜びつつ、今日も元気に脳を破壊していこうと思う。

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