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作品の中に推しを見つけられなくなったオタク

人生の大部分をオタクとして生きてきた。

小学校低学年でゲームにハマったときから、中学も高校も大学も、メンタルが爆散して引きこもりニートをしていた頃も私はオタクだった。オタクの中でも、特に「推し」にキャラ萌えしてその日の糧を得ているタイプのオタクだった。

しかしここ数年、新しい作品に接しても「推し」を見出せなくなってしまった。オタクという輪廻から解脱できたわけではない。オタクというものは解脱できない。相変わらずオタクとしてコンテンツを楽しんではいるが、作品の中に特に好きなキャラクター、「推し」を見つけられなくなってしまったのだ。

何という事態だ。

推しを愛でる事で日々の気力を錬成していたオタクから推しを抜いたら、どうなってしまうのか。目の死に具合がさらに増してしまう。もしかしたら既に死んだ魚そのものになっているのかもしれない。

私生活が充実することでオタク活動から遠ざかるタイプのオタクもいるが、私はそういうタイプではない。私生活は生まれてこの方荒野だ。推しという緑すら無くなったため荒野度が高まり、いつイモータン・ジョーらにデスロードされてもおかしくないレベルになっている。

なぜ推しが見つからないのか?ゲーム楽しめない問題でも書いたが、社会生活とかいう余計なことを詰め込み過ぎた結果、推しを処理できなくなっていった可能性がある。推しという存在を常に心に描き続けるには、脳内にそれなりのリソースが必要だ。わたしに搭載されているCPUは常人の8割くらいの性能しかないので、しゃらくせぇ業務メールとか出しているうちに推しを処理出来なくなっていったのかもしれない。

社会に適応しようと頑張ったオタクがその結果推しを喪って、ついでにいうとそんなに社会にも適応できていないとか、もうこれ以上俺から奪うのは、やめてください……と炭治郎ばりの土下座をかましてしまいそうになるが、今からノージョブになるわけにも脱オタクするわけにもいかない。それでもオタクとして活路を開いていこうと思う。

推し喪失前から変化したことといえば、良い意味で作品と距離が取れるようになったことだ。推しがいた頃は作品に関するありとあらゆることに一喜一憂し、情緒がジェットコースターのように上下回転し、めんどくさい恋人のようになっていた。推しを想うあまり、少しのズレも許せないせこい人間になっていたのだ。

加えて長年いろいろな作品を見ていると、「これ進研ゼミで出たやつだ!」とばかりにパロディやオマージュの意味に気付くようになってくる。「この作家が描きたいものはコレなんだな」となんとなく理解できるような気もしてくる。文脈が分かってくるということだ。

以前と比べると、今の方がそのメディア自体をふわっと好きである。漫画を買って読むたびに、ああ漫画っていいなと思ったりする。昔のような強い情動は失われたとしても、その「好き」の在り方も、イエスだね!最近はそう思えるようになってきた。

そもそも「好き」にはいろんな形があるのだ。どんな形であっても好きな存在があって、それがいっぱいちゅき♡なこと、それこそがオタクの原点であり、大切なことだと気付く。そう思うと、私はまだ荒野を歩いていけそうな気がする。


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