千夜百夜一夜の恋
主上の准后の美色に迷うて、政に害あることを悪めば
(英草紙 後醍醐帝の三たび藤房の諫を折く話)
自らの親政を望み、北条幕府末期を攪乱し世を大混乱に陥れた後醍醐帝には、万里小路藤房という博識の寵臣がいた。建武の新政なるつかのまの成功に現を抜かす天皇のさまを諫めたひとつがこれである。准后である阿野廉子を寵愛するあまり、その言をむやみに取り入れては政治によくありません、というのだ。廉子は女性にあって実務に長けた官僚的性格だったというが、しかし時は乱世、藤房はこれを芳しく思っていなかった。痛いところをつかれた天皇はしかしこれを受けて、唐の詩人、宋之問の「沈魚落鴈」の詩を引き、魚や鳥に美醜の区別などつきはしない、美人を愛せるのは人間だけだと、藤房をうまくやり込めたとある。でも実はこの藤房卿のほうこそ、当代にあってきわめて純愛を生きた人であった。
これより遡ること10年、後醍醐天皇の中宮の女官に左衛門佐局という人がいた。大勢のなかでもひと際目立つ美貌で、さらに琴の妙手ときた。ある年の秋、北山殿で催された祝宴で藤房はこの局を目にする。琴の美しい音色に誘われ、局に一目惚れしてしまったのである。とはいえ、相手は中宮に仕える女官、しかも並外れた美女とあっては近づく術はない。藤房は恋焦がれながら3年、1,000もの月日を悶々と過ごす。色恋の道にかけては伊達揃いだった公卿の世界にあって、これだけでも藤房の一途な純情が偲ばれる。
やがてある日の夜、千載一遇にも局と一夜の契りを結ぶことができた。想いを秘めたまま何年も忍んでいた藤房の喜びはどれほどだったことだろう。当時の女性への礼儀には、二夜三夜と続けて通うのが習わしだったそうだが、それどころか千夜も耐えたのだから、たとえ百夜であろうと通い続けたかっただろう。しかし運命はあまりに残酷、この初夜が最後になってしまったのである。
1331年、後醍醐天皇はついに倒幕への動きをみせる。こともあろうかこれを密告したのは天皇の近臣吉田定房、以降首謀者は幕府によって死罪や流罪に処される。それでも「朕ハ知ラヌ」としらを切っていた天皇は三か月後、闇夜に紛れて御所を脱出、笠置へ落ちていった。いわゆる元弘の乱である。むろん、藤房もこれに同行。しかし悲運にもこの日が局との第二夜の約束の日であった。
もう二度と会えぬかもと、たった一目だけでもと藤房は御所の局を訪ねるが、あいにく中宮のお供をして不在であった。天皇は自らの都落ちに合わせて、中宮を里方へ帰していたのである。なんともとばっちりを受けた藤房だが、ならばせめてもと、髭を少し切って一首の悲痛な心の歌を添えて残していく。これが最後だった。
のち、御所に戻った局はこの歌を何度も読み返し、藤房に会いたい一心に様々に行方を探すが虚しく終わった。そしてついには心神喪失となり、形見の髭を袖に入れ、大井川の深い淵に身を投じた。たった一夜の儚い契りだったが、しかしそれは千夜にも値し、それゆえに2人は真の愛を貫いた。戦禍がもたらした痛ましい悲恋でこそあれ、その愛に殉じた局には少しの後悔もなかったのではないかと、この純愛羨ましく私は今もそう考える。
鎌倉が陥落し、京都に戻った後醍醐天皇はいよいよ親政を始める。常陸に流されていた藤房も政治の場に舞い戻るが、先の諌言が聞き入られることはなかった。その後、時期も理由も不明のまま突如出家し、ついに行方が分からなくなったという。でもそれは政治的なものではなく、局へ抱き続けた千夜百夜一夜の愛が、局の死によって永遠に閉ざされた夜になってしまったことによる傷心からではないかと、そうした純愛藤房を思わずにはいられない。
行方知れずとなった藤房の伝説や伝承は各地に広まっているが、いずれもその真偽は謎のまま現在も分かっていない。
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