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死の悲しみの果て、「かかる夢見ぬ人やいひけむ」
衝撃的な言い知れぬ寂寥でもって涙を誘う、右京大夫が女院建礼門院を訪ねる件は、いつ読んでも深い感動を覚える名文だが、もうひとつ、ある歌を紹介してみたい。恋人だった小松家資盛が壇ノ浦で入水し、その死の知らせを受け取ったときの回想である。「恋人の死」と題されているが、悲報を知ったのは翌年の春のことだった。
涙が止まらず、それを見られまいと衣服を被ってただただ悲しみに明け暮れた日々を過ごす。忘れようにも恋人の面影がつきまとい、その言葉を聞くような思いがして、それがかえって身を苛む。言いようのないこの悲しみをこのように歌った。
なべて世の はかなきことを 悲しとは かかる夢見ぬ 人やいひけむ
「世間一般では、人の死は悲しいと言うけれど、でもそんなことを言うのは、私が見たような恋人の死というつらい夢を見たことがない人たちだろうか」
しばらくして、ある人が「その悲しみはどんなものでしょうか?」と(世間一般的不躾さで)問うた際、彼女はこうも歌う。
悲しとも またあはれとも 世の常に 言ふべきことに あらばこそあらめ
「世間が言うように悲しいとも哀れとも、そう言えればいいのですが、でも私の悲しみはそのように言えるようなものではありません」
ともすればやるかたなき怒りがこもっているようにも感じるが、きっと精一杯の言葉だったのだろう。あるいは人は、身内ならなおのこと、また他者にあってさえ、死について軽々しく言葉をつくことはできず、生死については口を噤むほかないのかもしれない。
昨今、奇怪きわまる数々の死が報道されてやむことがない。それを受けて、さまざまな言葉が飛び交っている。コメントを求められては、斟酌した文言がむしろ人を傷つけることも目にする。
「このあはれ、いかばかりか」という問いかけに、私は右京大夫の「かかる夢見ぬ人やいひけむ」を思った。
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