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わたしたち、歌う身体、語る身体

デヴィット・エイブラムという哲学者の "Flesh of Language" なる小論を読んでいた。Flesh of Language = "ことばの生身"とは何だろう。Language と聞くと私たちはまず words を考える。words とは意味のついた記号である。あるいは、意味するものとされるものとのあいだに直接の対応関係を結ぶものである。普段、私たちは言葉をこのように考えている。言葉を定義するのもまた言葉であり(辞書をみよう)、言葉の意味をさらに別の言葉で定義する。ついには「犬」という言葉は犬そのものとは関係がなくなり、犬という単なる概念を恣意的に表すだけになる。しかし著者はここで、言語に宿る身体的な深みについて探求している。言葉は辞書的で抽象的な意味記号ではなく、身体をともなった伝達行動であり、情動に付き添ったものだとし、これを"singing the world"(世界を歌う)と考えている。

この考えはモーリス・メルロ=ポンティが嚆矢だろう。ポンティによれば、言語には単なる概念や定義では伝達できないジェスチャー、声の抑揚やリズムといった身体的(肉体的)な側面があるとし、人間は「歌う身体」だと論じた。メロディが表すのはメロディそのものであって、そのメロディとは別に「メロディの表す意味」があるわけではない。子供は辞書で言葉の意味を覚えてから言葉を使うわけではなく、周囲の環境にある音をまねて、最初は「ウー」とか「アー」などと言って概念や意味によらず、その気持ちを伝える。ポンティの「歌う身体」とは、記号に置き換えられることなく直接伝わるコミュニケーション手段としての言語の重要性のことだった。著者はこのポンティの思想を下敷きにしているように思われる。

でも私たちはこのことを体験からよく知っている。言葉は怒りにふるえ、喜びにはずみ、悲しみに沈んでいくことは毎日のように経験している。そしてそれらの「ふるえ」「はずみ」「沈み」自体が、たとえそこに言葉が乗っていなくとも直接相手に伝わる。私たちは怒りの意味をよく知らなくとも、直接怒りにふるえた言葉(or 言葉にならない言葉)を理解できる。言葉が身体的であるとは、必ずしも物理的な身体のことをいっているのではなく、知覚や体験を通じたものだ。これとは対照的に、言語の抽象的な意味にはそうした身体が介在していない。

そうしてみれば、思うに言葉には「手触り」があるのではあるまいか。ザラザラしていたり、ツルツルしていたりと直接手に触れて捉えられるものではないだろうか。音楽的/線的/に時間に沿って流れるだけではなく、彫塑的で立体的な一面もあるのではないか。そして、それに触れるのも私たちの「手」である以上、そこには言葉によって繋がった互いの身体があるに違いない。著者による「ことばの生身」とはおそらく、言葉は身体を通じて直接触れ、そして運ばれるということだったのだと思われる。

このことを著者はズバリ一言でこう記す。

incarnation

私たちは子供の頃からすでにことばを身体に「受肉」した存在なのである。


※singing the world と world を使っているのは、これは何も人間だけのことではなく、動物や植物などが奏でる音も含めてのこと。いうまでもなく動植物もそれぞれの身体をもっている。

※また、singing the world は自動詞SVと解釈し、the world ( is ) singing にもとれるが、やはりここは他動詞目的格、singing ( of ) the world と捉えたい。

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