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「新しい生活様式」から考える2020年代 ~アフターコロナの価値観とは~

はじめに

 2020年代の始まりは、新型コロナウイルス(以下、新型コロナ)感染拡大により、外出自粛、休業や休校要請で、全国民が家に引き込まなければならない、これまで経験のない事態に発展した。“コロナ疲れ”“コロナうつ”といった言葉が出てきたように、自粛の弊害は経済問題だけでなく大きな精神的ストレスを与えている。また“コロナ脳”と揶揄されるような、過剰に新型コロナに反応するヒステリックな現象も生まれている。

 私事では、現在のところ直接の経済的被害はないが、仕事上で業務縮小や外出自粛や休業要請が出てから少なからず生活を制限され、これまでの生活を見直さざるを得なくなった。選択の機会が少なくなることは、窮屈さを経験するだけでなく、必然的に考える時間ももたらした。

 本文は、新型コロナ感染拡大の収束後の社会変容について、稚拙ながら推察をした内容である。

1、新しい生活様式

 5月4日、国の緊急事態宣言の期限が2020年5月末まで延長され、国の基本的対処方針が変更された。私が居住する高知県は特定警戒都道府県以外の県として、5月5日に昼夜を問わない不要不急の外出自粛、特定業種以外の休業要請の解除を発表した。しかし、引き続き5月末までは他県との往来自粛や夜間の繁華街の接待を伴う飲食店への出入りの自粛、イベント開催の制限を求めている。また、5月4日に新型コロナウイルス感染症専門家会議(以下、専門家会議)で示された“新しい生活様式”の実践を県民に求めている。

 新しい生活様式の実践例として、感染防止に関しては「人との間隔はできるだけ2m(最低1m)開ける」「会話をする際は、可能な限り真正面を避ける」「外出時、屋内にいるときや会話をするときは、症状がなくてもマスクを着用」、移動に関しては「発症したときのため誰とどこで会ったかをメモをする」、食事に関しては「対面ではなく横並びに座ろう」「料理に集中、おしゃべりは控えめに」、冠婚葬祭などの親族行事は「多人数での会食は避けて」などが記されている。これらは今までの生活様式や社会のマナーを大きく変えるものであり、すぐに実践していくには違和感を覚える部分もある。

 あくまでこれらは提言であり、強制力や法的拘束力は持たず、専門家の推奨するかたちに過ぎない。しかし、専門家会議は政府の信頼が厚く、これまでの新型コロナ対策を見ても主導権を有している。よって、この提言が影響力を持つことは間違いなく、今後は家庭や職場、地域で意識せざるを得ない。

 新型コロナに限らず、人類はあらゆるウイルス、細菌と共存していかなくてはならず、感染症のリスクは常に存在する。そのことを考えれば、収束後も新しい生活様式は影響力を持ち続ける。

2、”生権力”と”空気”

 今や「三密」回避は強い価値観となった。屋内であれば、消毒や換気の徹底、空間の確保、場所によっては透明なビニールで仕切りを作ることなどが、今後は常識となるだろう。

 フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で“生権力”という考えを示した。これは権力を解剖学的な見地から観察して、監獄における権力の技術に規律という形態を認め、規律は恒常的に従順な身体を生み出す方法となると説いた。規律は、身体の精密な管理と恒常的な拘束を可能とする権力の技術となり、我々の行動を意図的にコントロールすると言う。

 今回のコロナ騒動では、感染拡大防止のためには一定の人権制限はやむを得ないという世論が強かった。そのため、外出自粛や休業要請の判断の遅さなどは批判に上がったが、憲法上の私権の議論には発展せず、緊急事態宣言後はすぐに補償の話題がメインとなった。

 山本七平は『「空気」の研究』のなかで、空気に関して「誠に大きな絶対権を持った妖怪」と表現している。また、この妖怪は人びとに一定の行動パターンを強いるもので、非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ判断基準だと言い、宗教的絶対性をもち、我々が抵抗できない何かと記している。

 今回のコロナ騒動に当てはめれば、外出自粛が続くなかで、外で遊ぶ子どもを見つけては警察に通報したり、換気のため窓や入口を開けている店舗があると「客の声がうるさい」と警察に通報したり、なかには営業中の店舗に休業を求める貼り紙をする“自粛警察(実際には警察官ではない市民)”と揶揄される者も現われた。休業要請に応じないパチンコ店では利用客と自粛派の市民とで口論になる場面も見られている。

 新型コロナ特措法は都道府県判断で要請や指示が可能となるもので、あくまで罰則規定がないものであるが、海外のように罰則規定を持たなくても外出自粛や休業を事実上せざるを取らざるを得ないかたちとなっている。


3、今後の感染症対策

 2020年5月8日、午前10時半時点で、国内の死者は590人、重症者は300人となっている(※クルーズ船の乗客、帰宅後の確認を含む)。現在のところ国内では収束に向かっているが、あくまで外出自粛や休業要請の結果であり、今後のウイルスの変異や自粛解除後の状況により、第2波、第3波も考えられる。よって、新型コロナの科学的検証は途中段階の評価しかできない。

 私が専門家でない以上、新型コロナの科学的検証はできないが、懸念していることは、今後のあらゆる感染症の流行時における政府の対応である。例えば、毎年、流行するインフルエンザは2019年では死者が3000人を超えている。関連死を含めれば更に多くなり、1万人を超える。インフルエンザのワクチンがあるとはいえ、感染リスクを考えればインフルエンザも新型コロナと同様の対応が求められても不思議ではない。今回は未知のウイルスであったため、WHOの緊急事態宣言や他国の動きなども影響したが、いずれにせよ感染症の流行時期には新しい生活様式に沿った同調圧力は生じやすくなっている。前回よりも外出自粛や休業要請ができるかたちを整えたと思われる。

 比較までに、海外の状況をみると、4月30日には、アメリカのミシガン州で、州知事がロックダウン延長の意向を示したところ、一部の武装した数百人のデモ隊が州議会に突入したとの報道があった。5月6日には、ドイツで営業規制が大幅に緩和された。ドイツは現在も死者が100名前後発生しているが、それ以上に規制を緩める国民の声が強く政府が早期の判断をした。

 一方、スウェーデンは“集団免疫”という考えに基づいた対策が取られている。集団免疫は経済的な制限措置には消極的で、国民の一定数が感染をすることで早期に免疫を持ち、抗体を持つ国民を増やして収束に繋げる対策となる。これは、死者が一気に増加することで医療崩壊を招くという批判もあり、対策が適切だったのか判断はできないが、今後の感染対策を考えるうえで参考になりうる事例といえる。

 いずれにせよ、日本は欧米諸国に比べると私権の制約に対して国民が寛大な対応をとったといえる。


4、アフターコロナの時代

 我々は今回の新型コロナで感染症の怖さを改めて知らされた。収束後も感染症がこの世にある限り、その脅威は残り続ける。

 今後、全ての業種、文化、芸能、スポーツに至るまで一層の感染症対策が求められてくる。1人や家族だけで楽しむ消費活動も増えるだろうし、日常生活で体温測定がマナーとなる社会となる。なかでもITや衛生などの分野は需要が高まり、その進化も加速していく。それに順応できる者、順応できない者で格差も生まれるだろう。

 高知県は休業要請の解除はしたものの、新たな措置として「夜間繁華街の接待を伴う飲食店」「カラオケボックス」「ライブハウス」への県民の出入自粛を求めている。名指しされているこれらの業界では専門家会議で示されたような感染対策を講じなければ継続ができない状況となっている。対策がすぐにでもできればいいが、これまでの業態やサービス提供の抜本的な変化も必要になってきている。

 大規模テロでテロ対策が組まれたように、大震災で防災意識が強まったように、コロナ騒動は社会が感染症対策を本気で進めていくスタートを切らせた。そのうえで、新しい生活様式は模範となるべき行動指針として、我々の行動を変化させる。

 感染症対策や公衆衛生の高まりは歓迎すべきことだが、これまでの危機管理と異なるのは「集まらない」「近づかない」「触らない」というのが前提になり、これまでの“生きやすさ”のための危機対策とは異なる性質を持つ。結束して対応しなければならない状況で、物理的な距離を取らなければならず、それは知らず知らずのうちに心理的な距離になりやすい。お互いに感染リスクがないかを疑わなければならず、人びとの間で分断を生む可能性も潜んでいる。人間は社会的動物である以上、集団として生きるしかなく、このジレンマにどう立ち向かうか課題として突き付けられている。

 分断を生まないためには、メディアリテラシーを高めていくことが大切となる。科学的エビデンスを通じて自分の価値基準のフィルターを見直し、正しくリスクを理解して、日常生活の選択をしていくしかない。

 新型コロナによる歴史のパラダイムは、管理や監視としった社会構造を推し進め、窮屈さというコストを払ってでも感染防止を求めるようになった。

 もう、コロナ騒動前の社会に戻ることはない。

 これから新たな価値観となる2020年代を歩まなければならない。


〇参考文献
ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』(新潮社、1977年)
山本七平『「空気」の研究』 (文藝春秋、2018年)

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