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リサーチ 13.March.2024

先月から始めている劇団野らぼうの前田斜めさんとのリサーチ。先月行われていた下北沢国際人形劇祭に始まり、この前訪れたシアターコモンズでの観劇などについて意見交換をするところから始まった。

斜めさんとのリサーチは特に出口を決めていない。出口を決めてしまうことで出来ることが減ってしまうし、「見せるために作る」方向じゃないリサーチがしたい。面白いのか、面白くないのか、よくできてるかどうか、とかジャッジしないで、とにかくやってみる、をここでの信条にしている。

前回は、まず音と身体や言葉の関係を探ることにした。音や身体、言葉は並べて連結が可能かどうか。

これをやってみて、少し寝かして考えている中で一つ問題だと感じる点があった。それは進んでしまう、ということ。ある種、言葉も音も推進力がある。一つの言葉は何かに接続しようとし、音も同じようにすぐに時間を作ろうとする。そして、そこで作られる時間は既に作られた時間である。自分のクリエイションの中では時間の推進力を止める方向で、幾つかの方法を試しているけれども、言葉と共にあることで、その推進力が増すような印象があった。恐らく、通常の演劇では言葉が音楽と共にのせられて進んでいくこと自体が喜ばしいことである(のではないか?)のに対して、言葉と音によって時間を澱ませたり、立ち止まらせることは、もしかすると逆方向なのかもしれない。

それで今日は「進んでいるとしても、できる限りゆっくり、そして何か意味みたいなものが別の意味につながっていくようなものではなく、凄くゆっくりと何かの状態が変わっていくこと」が可能かどうか、試すことにした。「A地点からB地点に行く」というのでもなく、雪が変化しようとする意識がなく、外的な要因で、状態がゆっくりと変わっていくような感じで、なるべく変化しないように変化していく様子を表現するにはどうするか、ということを考えてみた。

西洋音楽においてメロディー、ハーモニー、リズムの三要素を重要視しているが、メロディーやハーモニーを作りあげる細胞の一つである音階は使いやすいように均等に分割された平均律で出来ており、今現在欧米文化の中にあるわたしたちの巷にある音楽は、ジャンルに限らず、この平均律の音楽であふれている。古楽または現代音楽においては平均律以外の微分音が使われるが、ピアノをはじめとした近代の楽器の構造自体が平均律で出来上がっていることこらもわかるように、私たちの音楽の基礎は平均律に支配されている。

リズムを作る時間に関しても似たような状況にあり、拍を管理するのは一分を基礎とする時間感覚であり(クラシック音楽のテンポ表記は、一分間に何回打点があるかで表記されている)、これは世界共通である24時間制をベースにしたものである。

日本では、江戸時代、寺の鐘やニワトリの鳴き声で大体の時間を把握していたのに、明治以降厳格な西洋的な定時法が導入されたことによって、人々の時間に対する概念や感覚が変わった。この辺りは、音楽の楽譜のフォームが今の形に定着した産業革命以降の流れにもよく似ている。郵便や交通において、この定時法が導入されて正確な時間が共有されるようになれば、流通の速度も上がり、経済の発達にも有利に働く。経済の発達に有利に働くのは誰のためかというと、それは国のため、ということになるが、それによって民衆がそれぞれ持っていた時間感覚はなくなっていったのではないかと思う。

平均律も24時間の定時法も導入されてしまえば、使い勝手が良いもので、それは当たり前の細胞としてあらゆる音楽が作られている。メモリがない、塊のような概念も一つ一つ名前をつけてデータ化することで、それは使えるものになる。

自分の創作においては、このデータ化された一つ一つの細胞をもともとあった塊に戻せるか、時間と音をグラデーションに出来ないか、ということを考えていた。太陽の位置で時間を把握していた感覚を、今もう一回体験することができるのか。今回のリサーチでは、色による楽譜を試すことにした。これは8月に初演する野外コンサートで演奏するために試作しているもので、ゆっくりと色が変わっていくだけの楽譜である。通常の記譜法では拍があれば拍に左右されるし、拍がないスぺ―シャル・ノーテーションを用いたとしても、どちらにしても秒数に支配される。平面に何かを書くと、そこには私たちが共有している時間のシステムに乗っかってしまうので、色のグラデーションで出す音を指定しようと思った。先日色と虹、そして平均律の話を聞いて「この色は何色である」というのが個人的感覚によって違う、というような話を聞いて、見ている色が同じでも、人が思う「赤」が異なっていたら、そこに時差が生まれるだろう、というのもアイディアの内の一つだった。

斜めさんには、「とにかくゆっくりと、一つの状態から別の状態に移るだけのことをしてください」とお願いして、自分は色楽譜を見て、その音の移り変わりを演奏することにした。

メモ❶:斜めさんと話をしていて、オブジェクト・シアターの話になった。これは面白い。もっと勉強しようと思った。

メモ❷:階層化されたものを再び塊に戻すこととは別の方向で、名付ける必要がないものに名前を付ける、というのも面白そうだと思った。殆ど差異がないような一つ一つの音に名前をつけてみたらどうか。

メモ❸:勤務校の授業で、Helmut Lachenmannの「Pression」の初版楽譜と新しい版の比較をしている。これはわたしがEnsemble Modern Academyで実際受けた授業で学んだことを応用しているんだけれども、初版と新版でいくつか異なる点として、新版では演奏する前の動作が書かれている。どういう動作で演奏を始めるか。それは楽器を演奏するということを飛び越して、どう楽器との関係性を作るか、ということだと思う。オブジェクト・シアターではモノとの関係性を考えるという話があったけど、そういう観点で演奏家と楽器の関係性をゼロから考えるというのも面白そうだと思った。自分の作品では、「nonoji」というシリーズで、モノと人との関係を考えたりしていたけど、こちらの方向ももう少し探ってみる必要がある。「nonoji」では茶道の動作の中で、お道具を生まれたての赤ん坊以上に大事に扱う所作があって、それが使われる「モノ」と「人」の関係性と違うように見えて、そこから着想を得た。ビデオだと暗くて全然見えないけれども、自分の備忘録と参考に貼っておく。


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