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【十月の備忘録】ex-peri-mentalの先にあるもの

朝から仕事をする。一山超えたところにある隣町のカフェまで車で向かう。小さな森を抜けたところにそれはあり、そこまでのドライブはとても気持ちが良い。特に秋に森をドライブするときは、刻々と変化する紅葉を楽しみながら自分自身も森と同化したような気分になる。

「自然と一体化できる」なんてふれこみのテーマパークもあるけれど、自然と人間が別の存在として考えられている人間中心的な世の中で、自然と同化することはどうやら気持ちの良いと認識されているようだ。


所属する女性作曲家会議のイベントで、以前Frau Musica Nova(FMN)のブリギッタ・ムンテンドルフのレクチャーを行った。そこで団体の中心軸として「エクスペリメンタル」という概念を据えている、という話があった。

FMNのアプローチは、非常に実験的、エクスペリメンタルな方法で、例えばアコースティックミュージックとエレクトロミュージックやメディアの交流などを通して、「現代音楽はここからここまで」というような境界線を作らないよう、意識的に活動しています。また「実験(Experimental)とは何か」という命題を軸に、異なるジャンルの中で「何が実験的であるか」「その分野で言う『エクスペリメンタル』」がどういう意味か」考えたり、特にLGBTQでは「トランス(越えていく)」ということが一つのキーワードでもあるので、そこをリスペクトし一緒に探求しながらステージを作り上げています。

上記、筆者による記事から引用

日本語で「実験的」などと訳される「Experimental」という言葉は、ex-の意味合いとして「外へー」、peri-やper-には「試みる」というニュアンスが含まれている。外へ、試みる、という概念は、LGBTQでいう「トランス(越えていく)」ことと関連している。枠組みを超えて、外側へ試むことはジェンダーを取り巻く様々なものについて捉え直すときに必要な態度なのかもしれない。


自分の作曲創作では、長きにわたって「人の想像力」に対峙してきた。自分が考え得る範疇を超えていくものを作る、一人で作る創造物ではなく聞く人が想像することで成り立つ作品。20代から30代前半はそれに費やしてきた。それは自分の、想像力の限界を認識したこと、そして矛盾するようだが人間本来の根源的な想像力を信じていたかったからでもある。全て完成させるのではなく不完全なまま提示する創作や意味を伝えるための言葉を分解し、点と点を少しずつ繋げて聞くような作品など、どうやって余白を作るか考えてきた(その意味では方法論は違えど、わたしもポストケージの一員であるのかもしれない)。


そのアイディアが少しずつ変化したのは、長野に拠を移したここ数年のことである。女性作曲家会議の活動の中でフェミニズムに触れたことも少なからず影響している。点と点から面を想像する行為は、その点がある所在が共通である場合に成り立つ概念である。点と点で高さが違う場合、それは綺麗な面にはならない。わたしが平面的にとらえていた場所は、実際は立っている人の位置によって異なるものであるのかもしれない。人の想像力を使うということはその人自身が選択可能であることを指すけれど、与えられている選択肢の数はこの社会の中では残念ながら偏りがある。大学入試における女生徒の定員と男子生徒の定員が違うように。もしそうであるならばそれは本物の「自由選択」とは言えないのではないか。「偶然性の音楽」とは「コントロール」の反対ではない。決定されていない想像力で成り立つ音楽は、人が持つ想像の選択肢が平等ではないという事実を浮き彫りにする。


ここで、わたしが最近影響を受けている二人の演出家のインタビューを引用する。

1人は、SPAC芸術総監督の宮城聰さんがいう「欲望」の話。

これは、ぼくが考えるところの「男の演劇」です。一言で言えば、相手への影響を極大化するための方法です。相手にどれだけ大きい影響を与えうるかを極大化するために磨かれてきたものです。

http://spac.or.jp/12_spring/miyagi_2.html

宮城さんの言う「弱い演劇」の対局にあるのが「男の演劇」であり、「相手に対してどれだけ影響を与えられるか」という欲望のために言葉も肉体も奴隷化することである。「男性的な欲望」を持つ例として日本のお能を例に挙げている点も興味深い。「言葉に徹底的に謙虚になること」「自然はコントロール可能だという虚妄を捨てること」、それはどのように可能なのだろうか。

そしてもう一人はチェルフィッチュの岡田利規さんであり、上記のインタビューにおいて彼は「人間中心じゃない演劇」について語っている。これらの言葉で共通しているのは「人間中心主義を脱する」ということである。人間が持つ欲望によって自然をコントロールしていくことの先にあるものが図らずも今の社会そのものを表しており、ここで語られることは芸術作品上だけの話ではなく我々の生活そのものであると思う。日常的にあるグロテスクさに精神が衰弱し、強くあろうとすればするほど疲弊していく。


「エクスペリメンタル」の思想は、実験的な思想を持ち、従来の概念を超えていくことを通して、人間の自由を再発見し獲得することにあったはずだ。「ポストケージ」世代のその先にあるものは何なのか。人間の尺度で語られる括弧つきの「自由を表現すること」の先に何があるのか。我々は人間の特権である「表現していくという強さ」に対して、何ができるのだろうか。


葉が紅葉するとき、その葉は生きる歩みを徐々に緩めている。紅葉とは葉の老化である。これら「生」→「死」に至るプロセスを「紅葉狩り」などと称して愛でる人間のグロテスクさに思いを馳せながら、森と一体化し呼吸する。今日もこれから山を越えて帰宅しようと思う。

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