見出し画像

迷惑かどうかは、相手が決めること。

子どものころから、「人に迷惑をかけない」と教えられることが多かった。そして今は逆に、子どもに対してそう伝えることもある。

けれどこの教え、本当に正しいのか。

と思うのは、「迷惑をかけない」という言葉によって、窮屈を感じる場面がたくさんあるような気がして。

「迷惑」というのは、相手が感じること。相手が決めること。

だから、自分が迷惑じゃないと思っていても、相手は迷惑に感じていることもあるし、逆に自分は迷惑をかけているつもりで、相手はそう思っていないこともある。

つまりは同じ行動でも、相手がどう受け取るか次第で、迷惑かどうかが変わってくる。

そう考えると、何が迷惑にあたるのかを判断することって、けっこう難しい。

人を頼ることが苦手な人は、「迷惑になったらどうしようと思って」と、相手の受け取り方を気にする。結果、抱え込んでしまったりする。

私もそうだった。今も、そうかもしれない。

「もっと頼って」と言われても、やっぱり気にしてしまう。相手の迷惑になるくらいなら、出さないでおこう、と。

でもさ、相手の受け取り方は相手にしかわからないのに、そこで自分の意志をひっこめてしまうって、なんだか変な気がしてきた。

だって全然迷惑じゃないかもしれないのに。
むしろ頼られて嬉しいって思うかもしれないのに。

「迷惑」ってやつはやっかいだ。

どうしてこうも、私たちを縛ってくるのか。

「人に迷惑をかけない」という教えをがっつり教え込まれてきた結果、「相手の受け取り方を気にしすぎてしまう」という心のクセができあがってしまった。

人に迷惑をかけることは、悪いこと。
人に迷惑をかけては、いけないよ。

それが何よりも、優先順位の上位にくる。

そしてある意味、「呪い」になる。

本当は迷惑じゃないことも、「迷惑かもしれない」とビクビクして縮こまってしまう。自分の思いを表に出すよりも、何よりも「迷惑をかけない」ことが優先なのだから。

結果的に、いろんなひずみを生んでいるような気がする。

お互いに迷惑をかけまくりながら生きることが前提にあれば、もっと救われた人、今も救われる人がたくさんいるんじゃないか。

自分のことを振り返っても、誰かに迷惑をかけたなと思うことはあっても、あの人に迷惑かけられたな…と思うことは、ない。

その時に「迷惑だなぁ」とふと思ったことはあったかもしれないけど、今思い出す限りでは、ない。

だから、記憶に残らない程度のものってことだ。

そう考えると「迷惑」ってやつは、幻想なのかもしれない。本当は存在しないのに、それを怖がっている。

仮に、もし本当に誰かにとって迷惑になっていたら、「その時は言ってね」と伝えておく。もしくは、伝えてもらえるような関係性を築いておく。

相手の本心は読めないのに、勝手に想像して勝手に閉じこもらなくてもいいんじゃないか。

公共の場所でのルールやマナーを子どもに伝える際も、「人の迷惑になってしまうから」とつい口走ってしまうことはある。

確かに、大多数の人が何を快と感じ、何を不快と思うのか、想像できる力は一定必要であるともいえる。

でもそういう小さな積み重ねが、結果的に呪いのようになってしまうのかもしれない。

「迷惑をかけないように」じゃなくて、このルールを守ろう、このマナーを守ろうと、シンプルに伝えてみればいいんじゃないか。

そしてもし想像をするのなら、「迷惑かどうか」じゃなく「嬉しいかどうか」「気持ちよく過ごせるか」どうかで、子どもたちには判断できるようになってほしいな、と思う。

自分の気持ちが上向きの時は、「もっと迷惑かけちゃいなよ」「もっと頼りなよ」と誰かに対して言えるのに、自分の気持ちが下向きの時は、「迷惑をかけるなよ」という言葉が、自分の中で響く。苦しいなぁ。

自分の中に響かせる言葉は変えられるとわかっていても、前に進みたい気持ちにブレーキをかけるような言葉が鳴りやまぬことがある。

それはそれで、いったん受け止めるしかないんだけど。

受け止めきれないから、こうしてちょっと書いてみるんだけど。


そんなわけで、今日はここまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?