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noteが書けない理由をポジティブに考えてみた

noteを書きたい。でも書けない。
書けたけどなんか微妙。間が空く。
また書けない。

そんなループを繰り返していた。

別にしがみつかなくてもいいのだけど、熱心に書いてた2~3年の充実は、そう簡単に捨てられない。

たくさん考え、感じ、書き、反応をいただき、いろんな方と関わった。思いを言葉に落とし込む難しさや、楽しさ、誰かに届いた嬉しさも知った。

「いろんなことを考える自分」が好きだったし、自分の考えを言葉にすることで、自分を好きになっていったとも思う。

だから今、熱心に書いていたときほど考えが進まない自分、感性が鈍っているように感じる自分に対して、焦りがある。熱心に考えて、感じて、書いてた自分はどこに行ったのーって。今の自分は退化してしまってるのかなって。

でもそんなことない。そんなことないんだよ。

と、否定の沼に沈み込みすぎず、なんでだろ?と冷静に考えられるのは、やっぱり書き続けて自信がついたからだと思う。意味があるかないかは別として、何かに打ち込んだ経験、一定期間続けた経験は、やっぱりどこかで自分の根っこを支えるものになってる。

そうそう、書けなくなったのは、退化したからじゃない。

今までの「書く」は、今を一度立ち止まって、過去をふりかえって書くことだった。過去の経験、今日のできごと。一秒前だとしても、過去は過去。書くことは、必ず過去を見つめることになる。

今、頭は未来を向いているのかもと思った。この先どうする?どうしたい?を考えてる。

Webライターの講座に通い始めて、もう一つチャレンジしたいことも出てきてる。仕事ではこうしたい。家のインテリアはこうしたい。過去を振り返るよりも、未来を見てたい。そんな気持ちなのではないかと思った。

未来を見てる人がみんながみんな、過去をふりかえって書くことができないなんて、そんなことはない。立ち止まったり、ふりかえったり、また前を見たりのくりかえしで、みんなきっと生きてる。

ただ、わたしは意外と不器用で、同時にはできなくて。過去をふりかえって書くモードが、ちょっとお休みに入ってるのかも。

はたまた「自分のこと」を書き尽くしたのかもしれない。物事を通じて自分が感じたことや考えたことを書いて、でもそれはどこかで共通してて、もうお腹いっぱいになったのかもしれない。もう十分書いたよって、今度はもう少し外に目を向けようよって。

自分に向き合って書くフェーズは終わり。未来を見て、外を見て、せっかく書くのだから何を発信したいのだろう。それを整理するときなのかも。

そういえばnoteを始めたころは「子どもの利益につながるような文章を書きたい」と思っていた。けれど「やりたい」が「~ねばらない」に変わり、苦しくなり、いろいろ気にせず自分が思ったことをありのままに書こうと続けてたら、結果的に自分と向き合う期間になった。

そして今、「何を発信したいのか」に戻ってきた。この道のりは、きっと必要だったんだ。


自分の未来のこと。自分の外の世界のこと。
それらに目を向けたときに、書きたいことはなんだろう。誰かに伝えたいことはなんだろう。


今すぐ答えは出ないけれど、考えてみる。



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