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「ことば」をいろんな角度から見つめてみる。

ことばって、分身。

自分の心のありようが、そのまま現れる。ことばにしてはじめて「そう思っていたんだ」と理解する。ことばという私の分身は、一度生まれると消えることはない。私が口をつむごうとも、どこかで、誰かに、何かを、伝え続けてくれる。ずっと、働いてくれる。ことばという分身はすごい。


どんな分身を生み出そうか。
心の中のドロドロした部分か、それともキラキラしている部分か。自分の心の中のどこに光をあてるのか、それにより生まれ出る分身は異なってくる。自分が生みたい分身を生むことができる。自由に決められる。考えてみたらすごいことだ。


どんな分身がいてくれたら、心強いだろうか。
ドロドロを吐き出した分身もいいけれど、ずっとそばにいるのは嫌だな。見ていると、そのドロドロに飲み込まれてしまいそう。

本当にしんどいときは、ドロドロを形にした方がいいのだろう。けれどどちらかと言えば、自分の心をやさしく、あたたかく、そして強く後押ししてくれるような分身を生みたい。その分身がいつもそばにいてくれたら、私は私を受け入れ、前へと足を進めることができる。



ことばって、栄養。

いいことばをたくさん取り込むと、心が育つ。
しなやかになる、丈夫になる、やさしくなる、強くなる。

時にことばは、刃物になる。毒になる。自分の心が弱いのかと、自分を責めなくていい。「心が傷つく」その瞬間はわかるはず。それに気がついたら、無理にことばを浴び続けなくていい。無理をすると心の傷は大きくなり、場合によっては枯れてしまうかもしれない。 


そんなときはやはり、別のことばが必要。
いいことばを摂取することで、心は回復する。
回復しやすくするために、心が元気な時ほど、いいことばを摂取しておきたい。

いいことばを、いい栄養として摂取できたなら、そのことばはもう私の心の一部。少しずつ育っていく心で、どんなことばを口にしようか。

今度はそのことばが、別の誰かの心の栄養になるかもしれない。なったらいいな。そんな希望をもって。そして栄養はめぐっていく。


そう考えると、ことばって贈り物。
誰かから誰かへ。
受け取った誰かから、また誰かへ。

受け取ってうれしかった贈り物は、きっと誰かに贈りたくなる。だからまずは、相手にとってうれしい贈り物をおくろう。
自分の目線ではなく、相手の目線に立って考えよう。どんな贈り物であれば、喜んでもらえるだろうか。


ことばという贈り物がめぐって、誰の心もやさしく、強くあったらいいな。



こちらの企画に参加させていただきました。
ありがとうございました。




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