「生きること」は手段じゃなくて。
毎日に大きな不満はなく充実感もあり、ありがたい気持ちも感じる。
だけれどどうしても突き抜けない何かがある。
頭の上に靄がかかっているような。完全な晴天にはならないような。
日により差はあれど、そんな状態はずっと続いていた。
「みんなそんなもんだ」と言われたらそうかもしれないけど、ここらでちゃんと向き合った方がいい気がする。と、ふいに思った。
そして、ノートに書きながら考えることにした。
書き出してみたら、少しわかってきた。
*
「今この瞬間」に命が向けられていない、という感覚がある。
だから、頭はいつも先を考えてしまう。
これを積み重ねた先に何があるんだろう。
意味があるんだろうか。
ゴールは何なんだろうか。
仕事でも、仕事以外でも、なんでも。
目の前のことに集中しきれない、という感じ。
じゃあどうして意味や、その先のことばかり考えてしまうのか。
意味のあることをしなければならない。
という思いがある。そしてもっと掘ると、
意味のあることをしないと、
自分の存在価値がない。
と思っているらしかった。
そして私が思っている「意味のあること」は、「誰かに必要とされること」であるようで。
つまりは、「誰かに必要とされていないと、自分の存在価値がない」と思っている、ということだ。
自分のことながら、腑に落ちた。
でもさ、よく考えよう。
必要とされてるんじゃない?
ほら、あそこでも、ここでも。
必要としている人いるよ、だから大丈夫じゃない?と言葉をかけてみた。
でも、何となく違和感。
そういうことじゃない。
もっととらえ直した方がいい部分がある。と思って、別の角度から問いをかけてみた。
必要とされないと、存在しちゃいけないの?
ここだ。ここが核だ。
言葉にするのも嫌だけど、私は深いところでこう思っていたらしい。自分に対して思っているということは、誰かに対しても無意識に思っていたのかも。あー本当に最低すぎる。
誰かに必要とされるされないは、生きていく中で一つの場面としてはある。でもそれが、生きる理由全てじゃない。
よく考えたら「”私が”生きる」理由が、「”誰かに”必要とされる」って、主体が”誰か”になっていて変だ。誰かがいるいないは関係なく、まず自分が主体で生きていいはずだ。
生きるってもっとこう、それだけですばらしいこと。何のために生きる?なんてなくて、「生きること」自体に価値がある。
見たり、聞いたり、食べたり、話したり、書いたり、感じたり、学んだり…それらは何かの「ため」にすることじゃなく、その行為自体が尊くて、重んじるべきことで。
私はこの「生きること」を何かの手段にしようとしていたようだ。だからたぶん、妙な苦しさがあった。
生きているだけでいいんだ。あたりまえすぎるけど。
生きることを、もっと味わおう。楽しもう。
意味なんて考えなくていい。
必要とされなくてもいい。
もちろん誰かの役に立てたり、必要とされたらうれしいという気持ちはあるけど、根底にもっと大切なことがある、ということを忘れない。
生きているだけで、すばらしい。
*
「生きているだけですばらしい」なんて、きっといろんな人が言っているし、どこかで絶対聞いたことのある言葉。でも本当の意味を理解していなかったんだろうな。
頭の上にかかっていた靄を分解して、言語化して、自分の思い込みに気がついて、はじめてストンと落ちてきた。
自分の中から出る言葉は、やはり強い。
理解はしても、明日からすぐに晴天、とはならなそうだけど、くりかえし、くりかえし、自分に言い聞かせていく。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?