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「生きること」は手段じゃなくて。

毎日に大きな不満はなく充実感もあり、ありがたい気持ちも感じる。
だけれどどうしても突き抜けない何かがある。

頭の上に靄がかかっているような。完全な晴天にはならないような。
日により差はあれど、そんな状態はずっと続いていた。

「みんなそんなもんだ」と言われたらそうかもしれないけど、ここらでちゃんと向き合った方がいい気がする。と、ふいに思った。


そして、ノートに書きながら考えることにした。
書き出してみたら、少しわかってきた。

「今この瞬間」に命が向けられていない、という感覚がある。
だから、頭はいつも先を考えてしまう。

これを積み重ねた先に何があるんだろう。
意味があるんだろうか。
ゴールは何なんだろうか。

仕事でも、仕事以外でも、なんでも。
目の前のことに集中しきれない、という感じ。


じゃあどうして意味や、その先のことばかり考えてしまうのか。

意味のあることをしなければならない。

という思いがある。そしてもっと掘ると、

意味のあることをしないと、
自分の存在価値がない。

と思っているらしかった。

そして私が思っている「意味のあること」は、「誰かに必要とされること」であるようで。

つまりは、「誰かに必要とされていないと、自分の存在価値がない」と思っている、ということだ。


自分のことながら、腑に落ちた。

でもさ、よく考えよう。
必要とされてるんじゃない?
ほら、あそこでも、ここでも。

必要としている人いるよ、だから大丈夫じゃない?と言葉をかけてみた。


でも、何となく違和感。
そういうことじゃない。

もっととらえ直した方がいい部分がある。と思って、別の角度から問いをかけてみた。

必要とされないと、存在しちゃいけないの?

ここだ。ここが核だ。

言葉にするのも嫌だけど、私は深いところでこう思っていたらしい。自分に対して思っているということは、誰かに対しても無意識に思っていたのかも。あー本当に最低すぎる。


誰かに必要とされるされないは、生きていく中で一つの場面としてはある。でもそれが、生きる理由全てじゃない。

よく考えたら「”私が”生きる」理由が、「”誰かに”必要とされる」って、主体が”誰か”になっていて変だ。誰かがいるいないは関係なく、まず自分が主体で生きていいはずだ。


生きるってもっとこう、それだけですばらしいこと。何のために生きる?なんてなくて、「生きること」自体に価値がある。

見たり、聞いたり、食べたり、話したり、書いたり、感じたり、学んだり…それらは何かの「ため」にすることじゃなく、その行為自体が尊くて、重んじるべきことで。

私はこの「生きること」を何かの手段にしようとしていたようだ。だからたぶん、妙な苦しさがあった。


生きているだけでいいんだ。あたりまえすぎるけど。

生きることを、もっと味わおう。楽しもう。

意味なんて考えなくていい。
必要とされなくてもいい。

もちろん誰かの役に立てたり、必要とされたらうれしいという気持ちはあるけど、根底にもっと大切なことがある、ということを忘れない。

生きているだけで、すばらしい。

「生きているだけですばらしい」なんて、きっといろんな人が言っているし、どこかで絶対聞いたことのある言葉。でも本当の意味を理解していなかったんだろうな。

頭の上にかかっていた靄を分解して、言語化して、自分の思い込みに気がついて、はじめてストンと落ちてきた。
自分の中から出る言葉は、やはり強い。


理解はしても、明日からすぐに晴天、とはならなそうだけど、くりかえし、くりかえし、自分に言い聞かせていく。




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