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軸をぶらさずに、書き続けたい。

最近、自分が書いている文章には大きく分けて二種類あると気づいた。


一つは、自分のために書く文章。

自分の感情や思考を整理して、肯定したり、受け入れたり、次に進むヒントを得るために。

または感動的、印象的なできごとがあったときに、それを忘れないために。


もう一つは、誰かのために書く文章。

これは宛先が特定か、不特定多数かに分かれる。

特定の人に向けて。
ものすごく伝えたい何かがあるとき、もしくは力になりたい、なれたらいいなと思ったときに。

不特定多数に向けて。
自分が経験したこと、知っていること、学んだことを知ってほしいと思うとき。いつか誰かに届いたらいいなという気持ちで。
これは「自分のため」に少々重なる部分もあるかもしれない。


この二つのどちらかにあてはまっているのかを問うて、あてはまってると心から思えるときには、評価や反応があまり気にならない。
(特定の人に向けて書くときは受け取ってもらえるか…とドキドキはする。。)


ただときどき、自分のためでもなく、誰かのためでもない、公開した後の評価や反応をすごく気にしながら書いてしまうときがある。

表向きは自分のためだったり、誰かのためだったりする。だから、半ば無意識で。
でも、自分の深いところまで潜って見つめてみると、評価や反応がほしくて書いている本音に気がついたりする。

どうしてそうなってしまうかと言うと、日常で少し嫌なことがあったり、何となく気分が落ち込んだりして。
「認めてほしい」「受け入れてほしい」と思う気持ちが(無意識に)強いときに、評価や反応を求めて書いてしまう。

そういうときは、公開した後にものすごく通知が気になってしまうのだ。どうだったかな。大丈夫だったかな。反応もらえるかな。それを気にしてる状態が、一番苦しい。


何のために書くのか。


大きな目的に立ち返る。

もちろん評価や反応を気にするのはごく自然で、きっとこれからも逃れられないと思う。
でも、全てにしない。膨れ上がらせない。

何のために書くんだっけ。自分のためか、誰かのためか。本当にそうなっているのか。問いかけて、ぶらさずに、大切に持っておこう。


「自分の心が喜んでいるか」と気にかけてみる。

自分のため、もしくは誰かのために書いているときは、ちゃんと自分の心が喜んでいる。
ワクワクして楽しい!というよりは、すーっと書くことに集中できて、心が穏やかであって。 

 

「読後感」という言葉があるけど「書後感」という言葉はないのかな。あるとしたら書いた後の感覚、つまり「書後感」が、とてもいい。そういうときは、軸をぶらさずに書けている。


目に見えるわかりやすいものに飲み込まれず、心を落ち着けて、軸をぶらさずに、書き続けたい。




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