子どものいい姿に、気づける人でありたい。
子どもの「いい姿」を見つけると、うれしくなる。うまく言葉にしにくいけど、あたたかい感情が、心の中にふわっと広がっていく。
「いい姿」は、大人にとって「都合のいい姿」ではない。
その子の「良さ」が表れた瞬間の姿だ。
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先日、小学生の子どもたちと近場の公園で遊ぶプログラムを実施したときのこと。サッカーや野球、バドミントンなどのスポーツや、レクリエーションや工作など、1日の中で様々なコースを開設し、子どもがやりたいことを選んで参加する、というプログラムだ。
私がその時にいたコースでは、元気のいい男の子たちが多く、少々てんやわんや。「早くやりたい!!」という気持ちが前のめりだ。スタッフの話を聞く体制を作るにも一苦労。なんとかスタートでき、一安心。
遊びが一区切りつき、いったん片づけへ。子どもは休憩し、担当のスタッフが範囲を示すためのコーンやペットボトルを片づけていた。私もその姿を見て、同じように片づけ始めた。
すると一人の男の子が、さりげなく片づけに加わってくれた。水の入った重いペットボトルを、運んでくれようとしている。
「あ、ありがとう」と伝えると、ちょっと照れた感じで「どこに運べばいい?」と聞いてきた。ベンチのところでいいよ、と伝えると、よいしょよいしょと、それを運んでくれた。
こういうさりげない姿が、私は大好きなんだ。
誰に頼まれたわけでもない、ほめられることを期待しているわけでもない、さりげない姿。それはたぶん「その子らしさ」であり、「その子の良さ」なんだと思う。
手伝わない子が悪い、と言っているわけではない。休憩中は休憩してていいのだ。でもその子を突き動かすものが、何かあったのだろう。さりげない優しさだけれど、それにふれると心がきゅっとなる。
こういう時、伝える言葉が見つからなくて、ただただ「ありがとう」と伝える。でも「えらいね」という言葉より「ありがとう」の方がいい。だってほめられたくてやっているわけじゃないと思うから。
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子どもの「いい姿」にたくさん気づける人でありたいと思う。
一見、少し手がかかる子どもたちでも、その子らしさやその子の良さを必ず持っている。必ず持っていると信じてよくよく見ていると、必ず見つかる。
幼稚園の先生だったとき、保護者面談で「子どもの良いところが見つからない」という話をよく聞いていた。こういう良いところがありますよ、と伝えると「そういう見方もあるんですね」と驚かれた。
きっと、気づいていないだけだ。「ない」わけじゃない。
子どもは誰しも、その子だけの良さを持っている。
それに気づくためには、能動的に見ることだ。
以前書いたこちらのnote。
「能動的に見る」ということについて書いた。
子どもと関わるときは、いつも立ち返りたい。
そんなわけで、今日はここまで。