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「没頭すること」の価値

意味あることをつい求めてしまう。そのほうが効率よく生きられるのかもしれない。でも生きるのことに効率の良さは必要か。抜け落ち、削がれるものがあるんじゃないだろうか。

子どもにとっての豊かさは、大人にとって無意味そうに見える時間の中に隠れている。

福島県のある場所で、小中学生の子どもと宿泊体験をしたことがある。その場所は県内や県外から子どもや親子の受け入れを行ない里山体験を提供している。某ウイルス流行前は年に数回訪れていた。
都市部からかなり離れた奥地に存在し、周りは山に囲まれ、小さな川が流れ、畑には色とりどりの野菜、田んぼでは稲が育つ。「のどか」という言葉がぴったりの場所。

犬、ヤギ、ニワトリなどの動物も暮らす。宿泊体験の中では動物の世話も大切な経験。エサをやり、散歩に連れて行き、小屋を掃除する。動物当番は子どもから大人気で、いつも立候補する手が止まらない。

当番が終わったら自由に遊ぶ時間。川でカエルを捕まえる、ターザンロープでひたすら揺れる、木材で作品を作る、広場で走り回る。安全上、最低限の約束を守れば、何をどのくらいしても自由。解き放たれたように子どもは遊ぶ。

ある年の宿泊体験に参加した男の子3人が印象に残っている。

その子たちは互いに初対面だったが、行きの電車であっという間に意気投合していた。子どものコミュニケーション力の高さには驚かされる。当然、当番も一緒。3人でヤギの世話当番を担当した。

当番が終わり遊ぶ時間になると「じゃ、おれらヤギのところに行ってくるわ」と小屋へ戻っていった。遊ぶ時間に動物と触れ合うことももちろんOK。でも他に魅力的な環境や遊びもたくさんある。すぐに戻ってくるだろうと思って待っていた。30分以上は待っただろうか。しかし彼らは戻ってこない。

ヤギの小屋を見に行くと、まだエサをあげていた。

柵ごしに草をヤギにあげる。むしゃむしゃ食べる。食べ終えたら新しい草を見つけに行く。またヤギにあげる。むしゃむしゃ食べる。これをくりかえす。ヤギは食べ盛りの年頃なのか、とてもよく食べる。あまりにエサをあげ続けるし食べ続けるので念のため現地の方に確認したら、食べてるうちは大丈夫とのことだった。

その後、2時間くらいエサをあげ続けていた。

次の日、遊びの時間になると彼らは「またヤギのところいこーぜ」と誘い合い、小屋へ出かけていこうとした。

ヤギにエサやり。もちろんいい。何をするのかは子どもの自由だ。でもね、せっかく来てるのに。他の場所も他の遊びもあるのに。このままずっとエサやりをし続けるのだろうか。この子たちはそれでいいのだろうか。

「ねぇ…」

ヤギ小屋へ向かう背中を追い、話しかけようとして、やっぱりやめた。その背中を、ただ見守ったほうがいいような気がした。

しばらく経ち様子を見に行くと、彼らは昨日と同じようにエサをあげ、ヤギはむしゃむしゃと食べていた。一見すると昨日と変わらない光景。しかしその様子をじっと見ていると、あることに気がついた。

3人は、2匹のヤギについて多くの発見をしていた。

「こっちのヤギの方がよく食べるよ」
「こっちは少し警戒心が強いんだよ。だからね、草を手にこすると人間の匂いが消えて、草食べてくれるよ」
「おしっことうんちは〇回してたなぁ、こんな感じで」

3人はただ「エサをあげているだけ」ではなかった。その過程で多くのことを見、気づき、自分なりに試し、ヤギに関わっていた。

3人は、こんなこともつぶやいていた。

「学校だったら怒られるよな」
「うん、お母さんにも絶対怒られる」

学校の先生やおうちの人の気持ちもわかる。私も彼らを止めかけた。「意味がない」と言葉にしないまでも、心の中で思ってた。エサやり以外のことも経験してほしい、時間を有効に使ってほしいと思ってた。それは紛れもなく大人のエゴだった。あの時止めなくて本当に良かった。

彼らはきっと気づいたとも、学んだとも思ってない。でもそれでいい。「こんなこと学んだね」と大人が言い換えるのもいらぬこと。その経験が陳腐なものになってしまう。


好きなことに没頭する時間を大切に見守る。その時間は子どもにとって「意味ある時間」になる。



こちらをリライトしました。



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