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つまり、考えて答えを出すって楽しい。

「note書くの楽しいよ」と何度か友人に勧めたことがある。友人はそうなんだねと私の気持ちに共感してくれる一方「話すことでわりと満足しちゃうと思うんだよね」とも言っていた。家族とか。頻繁に会う人に。

なるほどなと思った。確かに私は誰かに話す代わりにここに書いている。一人暮らしだし、なかなか人とは会えないし。「ねえねえ、こんなこと考えたんだけどね…」と、ひとりごとでありつつも、相手を特定せずに話しかけているようなものかもしれない。

ただもう一つ問いを立ててみる。日常的に話せる誰かがいるとしたら、私は書かなくてもいいのだろうか。書くことを必要としなくなるのだろうか。と考えたときに何か引っかかる。話せる誰かがいる・いないに関わらず、私に書くことは必要そうだぞ、と。

そう思うのは、自分の中で一度答えを出したいからだと思った。

たとえば「成長とは…」「最善とは…」と少々小難しいことが気になったときに、その状態で誰かと話し始めると、誰かの答えをただもらうだけになってしまうような気がして(そもそもそんなマニアックなテーマにのってくれる人がいるかどうかはさておき)。
たぶんそれを避けたいんだと思う。もちろん誰かと話しながら答えが見つかっていくこともあると思うけど。

以前も書いたような気がするけど、大学生くらいのころ、自分の考えや意見がないことに悩んでいて。その悩みを誰かに話すときに「バナナの色は赤だよって言われたら赤なんだって思っちゃう、って感じ」と表現していた。けっこうヤバかったらしい。

そんな過去があったからこそ、「自分の頭で考えたい」欲求がどこかに根強くあるのかもしれない。書きながら考えて。「成長ってつまりはアップデートだと思うんだよね」みたいに意見ができて。そう思った経緯も整理できていて。ここまで来てはじめて誰かに話す段階に入れる(私の場合)。

この段階まで来たら話したい欲がむしろとても高まっている。日常的にではないけど定期的に話せる友人がいて、その友人とは小難しい話もいろいろできるため、とてもありがたい。

書き続けていると、点と点がつながり線になっていく感覚がある。書き、考え、記事を投稿した後も「この言葉よく使ってるけど、どういう定義で使ってるんだろう」と別のことが気になり、それについてまた書き…と次々につながりつつ、深まる感覚。

考えた先に何がある?と問われたらうーんとなってしまうけど、考えること自体が楽しいのかな、と思う。考えて考えて「…こういう感じ!」とモヤモヤを自分なりに言語化できたとき、のどにひっかかっていた小骨が取れるような感じがする。それがけっこう気持ちよかったりして。

そんなわけでこれからもひとりごと言いつつ「ねえねえ」と話しかけようと思います。「あ、今話しかけられてるかも!」と思ったら、ぜひお話しましょう。




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