いっそ英語なんてできないならできなくてもいいんじゃない?
中3からは勉強といえば英語しか興味がなく、これまで英語のおかげで割と自由にジョブホッピングさせてもらっている私が言うのもなんですが、英語ってそんなにできたほうがいいのしょうかね?「英語はできて当たり前」とかいう "呪文" も、もはや古いような気がしてなりません。
今や旅行英語くらいならスマホの翻訳機能があれば十分な時代です。わざわざ小学校から必須で学習させるのも、ほんと今更感が否めない。だってこれまでさんざん英語を習おうとして挫折してきた国民ですよ。その遺伝子をもった子孫たちが、いきなりこぞって外国語をマスターできるとは残念ながら思えません。少なくとも英語に「憧れ」をもっている世代がいなくなるまでは。
それと同時に期せずして、「アニメ」や「和食」をはじめとした日本文化が随分と外の世界にも広まり、外国人が日本語を学ぶというケースも増えている感があります。日本人がもたもたしている間に、それこそ "旅行日本語" くらいなら問題ない人がもっと増えそうな勢いです。そうなったら観光業の人たちも楽でしょうね。
そもそも日本にいる限りはガンガン日本語でやり通すのが当然であり、それが日本人として誇りを持った人がすることのようにも思います。
そして正直、英語はさほどできなくてもこの「図々しさ」を持っている人のほうが、よっぽど "国際的感覚" を持った人といえるのではないでしょうか。おそらく外国で生活してみれば、この意味がわかってもらえると思います。
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むしろ日々個人情報が狙われる現代において、日本語ができてよかったなあと改めて感じることがあります。なぜなら日本語は難しいので、現状、一般人レベルであればいくらAIを駆使したところで、長文になればなるほどボロは出ます。紛らわしい内容(日本語に誤りがなくても)のメールは、とりあえず無視していれば問題ない。大事だったら何度も来るか、別の手段を取ってくるはずだし、本来冷静になって "普通に日本語が読めさえすれば" 難を防ぐことはできるはずなのです。
(これは "なりすまし犯" が主に外国人と想定した話ですが。)
とはいえ過去に一か所にでも自身の個人情報を提供してしまったことがあれば、被害に遭う可能性はあります(すなわち全国民が該当しますね)。私ももちろん、日々騙されまいぞと、どこぞの誰かになりすました身の覚えのないメールを受信箱から削除する作業が日課のようになっている始末。そうなってくると、そのメールが "なりすまし" でないことを判断するための能力のほうが必要になってくる。便利さを追い求めて不便になっていくこの人類の切なさというか愚かさというか・・・。
そういった際には、日本語の「読み書き」重視の教育に感謝せざるを得ません。英語学習では目の敵にされがちの「読み書き」に対してです。
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日本語は日本で生まれ育った人でも難しいと感じる言語です。特に読み書きに関していえば、日本語には複数の表記システムや、あるのかないのかあいまいな文法、多種多様な表現があり、それらを駆使するには個人の努力とセンスが問われるのだからもう大変です。しかしそのおかげか、幼少期から日本語を操ってきた人でないと感じない何か、読めばその筆者が日本語の "ネイティブ" であるかないかがすぐわかる能力も身につくようです。
数年前に一緒に働いたイタリア人で、会話もメールの文章も完璧な人たちがいました。聞くと、日本語は大学で4年間学んだだけという人もおり、そういう人もいるんだなあと感心したことがあります。また、今後もAI技術は発達していきます。ゆえに厳密にいえば "なりすまし" に全く騙されなくて済むということにはならないでしょうが、それでも日本語の感性がある人なら、かならず変な文章には違和感をおぼえることができるはずです。せっかく持っているその能力を、ちゃんと使って自分の身は自分で守るしかない、面倒ですね。でも面倒だけど人生楽ばかりしていても成長できません。
とりあえずそんな貴重な日本語の感性が失われないよう、大人になっても読書はしないとです。
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結局のところ、日本では日本語が重要視されるべきで、別の国へ行きたい(住みたい)のであれば、その国の言語を学べばいいだけの話です。英語が云々ではありません。便宜的に、共通の言語があれば都合がいいだけで、世界中で同一言語を話す必要はない。というか、そんなことにならないほうが平和である可能性もある。『バベルの塔』の話のように、人間は放っておくと図に乗って行き過ぎた行動をしかねません。また言葉が通じることでより深くわかり合えることがある一方、そのことに慢心すると遠慮がなくなり悲劇を生むこともあります。遠慮のない親子や夫婦、兄弟間の事件は凄惨になりがちです。そう考えれば、いっそ英語であれ何語であれ、人類共通の言語なんてなくてもいいとさえ言いたくなります。
それにもし国際会議や首脳たちの会談で通訳の必要性がない状況なら、みんな感情のまま無遠慮に言いたい放題になってしまうかもしれない懸念すら湧いてきます。外交の世界に精通している者ばかりであればその心得もあるでしょう(と思いたい)が、私はトランプが大統領になったとき、つくづく通訳という "クッション" の存在があってよかったと思いました。彼と将軍様の会談のときもしかり。
世界中の人々がみな平和に暮らすには、お互いを思いやる仲であるためにも、直にやり合えない状態を保つことが有効ではと思ったりもするのです。
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もう英語は "できるに越したことはない" 程度でいいのはないでしょうか。
真面目で向上心の高いニッポン人は結構なことですが、それくらい軽い気持ちでいたほうが、案外あっさりしゃべれるようになるかもしれませんしね。ありがちなパターンです。
なーんてここまで偉そうに言っているこの私。
私の英語はほとんど「いきおい」と「ノリ」です。どこまで相手に通じているのかわからないし、人の話を聞き取るのは7割できていればいいほうです(これは言語の問題だろうか・・・)。
それでも数十年なんとかなっています、とだけ最後に付け加えておきましょう。
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