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おしごと通信:すべてが修行としか思えない美術館監視員



1.      額しか見ないオッサン多い説


西洋絵画のルネッサンスあたりの作品には、絵の雰囲気に合わせてとても装飾的な額を使用していることがある。そのような作品の場合、人によっては “「絵」の鑑賞” どころではないと言わんばかりの食いつきようで “「額」の観察” が始まる。しかも足元の結界線を越え、なぜか絵の裏までのぞき込む。そんな観覧者の代表格がオッサンである。
だいたい美術館に来るオッサンというのは、大きく分けて2つのタイプがいると思われる。タイプ1は純粋に絵画鑑賞が趣味の人たち。こういう人たちは、基本的にはただ静かに鑑賞している。たまに特徴的なキャラの人もいるが、美術館という場所柄しょうがない。
そしてタイプ2は、奥方か家族についてきたおとうさんタイプ。(非常に昭和的なイメージで恐縮だが、)一般的におとうさんは美術に興味はない。夏であれば涼みに来ている感覚だろう。
そんなおとうさんたち、広い美術館内では家族から解放され単独行動をする。そのときの彼らの興味がなぜか「額」なのである。そしてだいたいロックオンされる「額」は決まっている。大きくてやたらと装飾的で、タダモノではない様相の「額」だ。
たしかにそれは花や植物みたいなビラビラした装飾が絵の周りを囲っていて、主役である「絵」に興味がなければ目移りしても仕方がないシロモノである。敢えて言うなら、そんな目立ちすぎる「額」の作者は、職人としては失格だろう。
それはともかく、オッサンが装飾的で華美な「額」に、なぜそこまで惹かれるのか。
これは日本人の一種の特徴ではないかと私は考える。

過去から現在まで日本の美術作品を見てみると、そのほとんどが「精巧」「精密」「緻密」「複雑」、といったところに感嘆させられる作品だ。言うなれば “職人技の光る” 作品である。とうてい自分にはできないと思わせるような逸品。日本人の多くはこういう観点で作品の良し悪しを見る “癖” があるのだ。それに加えて(なぜか)勤勉で手先が器用な人が多い日本では、そのような卓越した技巧を持つ作家が羨望の対象にもなる。

そもそも絵画鑑賞などというもの自体、昔の日本人には馴染みのない行為だっただろう。絵師はいたが、彼らは「アート作品」というより将軍や庶民を楽しませる「アミューズメント作品」を描く(または作る)ことを生業とする人たちである。今や日本文化の代表であるマンガもその一連だろう。とにかく作品というものを「自己表現」の手段として利用するということは、この “サムライの国” の民には思いつかない発想だったのかもしれない。

現代アートにおいては西洋の影響もあり、20世紀以降は抽象的な作品も増えてはいるが、いかんせんその見方がよくわからないという日本人はいまだに多いのではないだろうか。なぜならそれらは精巧でも緻密でもない、ただの「色のかたまり」や「どこにでもある物体」などで、一見どこにも感嘆できるところが見当たらないのだ。

実を言うと私も現代アートの楽しみ方がいまだにわかっていない日本人の一人である。「インスタレーションて何?」の世界だ。やはり見てそれが何であるかわかるもののほうが取っつきやすい。同じ“難解” な作品でも、シュールレアリスムのほうがまだ楽しめる。

しかしこういったことがまだあるという原因の一端は、ひょっとして日本の教育にも問題があるのではないか。(自分のセンスは棚に上げる。)
つまり、「そんなの学校で習ってないよ~。」だ。少なくとも私は “鑑賞” の仕方を教わった記憶が(残って)ない。

私が美術館というところへ行ったのは小学校の高学年くらいが初めてだったのではないかと思う。それもその当時、市立の美術館ができたからという感じのミーハー的な理由?で連れて行かれたような気もする。要するに、”美術作品の鑑賞を目的とした学校教育” と先生たちは考えていたかもしれないが、私には卒業アルバムのネタ作り程度の行事の感覚であった。何せ美術とは縁遠い地方都市の話である(これは偏見ではなく事実なのではっきり言う)。
そもそも「絵を描いて飯を食う」ということに理解のない時代。それは今でもさして変わらないかもしれないが、昭和という時代は戦後であり、人生の基準は「食えてなんぼ」、そんなもんだった。
私が美術館で目撃してきた “額を観察するオッサン” は、まさに昭和を象徴する年代の人たちである。絵画を鑑賞できないのは彼らのせいではないのかもしれないと考えれば、そんな行動も同情、共感、許容できる。

監視員として私はそんなオッサンたちが自身の本能的好奇心を満たせるよう数秒間の猶予を与え、温か~い目でゆっくりと近づき、「ガッツリ線の中入ってますよ~」 とは言わず、さっと足元の結界線を手のひらで示す。オッサンたちもこれで大概わかってくれる。皆まで言わずとも以心伝心、日本人らしく、お互いこれで通じ合い事なきをえる。

2.      マダムは子どもの絵がお好き


さっきは “オッサン” 呼ばわりで、こちらは “オバハン” としたいところだが、子どもの絵に食いつくのは “マダム” である。このニュアンスわかっていただきたい。
肖像画というものは、大概その描かれている人が誰なのかを知らないと、一瞥で通り過ぎる作品群である。王様とか誰かの愛人とかの絵なんて、思い入れのない人が見ても何の感動も覚えない。『モナリザ』だって知識がなければ “薄笑いの女の肖像” である。

私が勤めていた美術館にはとある少女の肖像画があった。歳の頃なら3-4歳といった、天使のようなクリクリパーマの白人女児の絵である。この子が誰かは誰にもわからないレベルのこの作品の前で “マダム” たちは足を止める。見て「かわいい」と言っている。ご自分のお子さんやお孫さんが小さい頃を思い出すのだろうか。私は独身で子どもにも特に興味がなくここまできたのでこれはあくまで想像である。
ただ、その絵の中の子どもは愛想がない。私から言わせると「かわいくない」し、もしくは「かわいげがない」。正直私が嫌いな子どものタイプだ。子どもの頃の自分を見ているようでもある。
しかしおそらくマダムたちは、子育ての経験から子どもの生態を知っており、その女児を前にして昔感じた何かを感じるのだろう。
といって長居はしないところがオバハンのおもしろいところで好きである。

3.      子どもは点々が好き


点描画は不思議と万人の目を引きやすい気がする。特に絵画にはあまり興味がない人のほうが、より惹きつけられる傾向があるように思う。
カラフルで明るめの色合いや、素人が見てもわかる特徴的な画法は、いかにも「絵画」という雰囲気で、印象の良い “きれいな” 作品も多いからだろうか。その美術館にある作品も、特に子ども(小学生くらい)がよく立ち止まって見ている。パッと見でなんとなくのように足を止め、近づいて見ると点々がボコボコしているマチエールにも興味津々といったところ。ん?これどっかで見たことのあるシーン・・・。
“額のオッサン” だ!
絵全体よりボコボコの絵の具のほうが気になるとは、なんとも日本人らしいことか。何を描いているかではなく、何で描いているかが気になるという、やはりDNAレベルで職人気質の民族である。
小中学生であることが多いので、結界線を越えていれば注意をしなければならないが、彼らは大人に注意され慣れているのか割と素直に聞いてくれる。どうかそのまま、大人になっても素直な心を持ち続けてほしい。

4.      ピカソの絵は大人の絵


よくピカソの絵を見て「こんなんなら俺でも描ける」というオッサンがいる。またオッサン。いや、これに関しては絵画に興味のない人が言いがちなセリフだろう。あるいは「子どもでも描ける」とかなんとか。
まさか本気で言っているわけではないでしょうな?
ピカソは平たく言えばメチャクチャ絵が上手い人である。そして彼の画風の中で特に有名なのはキュビスムの作品であろう。もちろん彼らが「描ける」と言うのもそっち系の絵のことのはず。しかしよくよく作品を見ればわかるが、どれも子どもの描く絵ですらない。
ピカソ自身は子どものような絵が描きたいということのようだったが、残念ながらピカソさん、あなたの絵は大人が描いた絵です。描くほうも見るほうも頭を使わないといけない、大人による大人のための絵です。

実際ピカソの作品をはじめ、なんとか派やなんとか主義とくくられる画家の作品は、見たまま以外の要素や背景を知っていなければ、なぜその人が後世に名を遺すほど、あるいはその作品に高額な値段がつくほど評価されているのかを理解することは難しい。
ただ有名な人の作品だからといって、「見ただけ」で本当にその価値を見出せるものではないだろう。

監視員をしていて気づいたが、子どもはピカソの絵にはあまり興味を示さない。単純に、何を描いているのかわからないから無視するのか、もしくはおそらくそれらの絵が “きれいな” 作品ではなく、子ども(すなわち自分)でも描けそうな絵だからそうなるのかもしれない。
もし子どもの目には子どもの絵とみられているということであれば、ピカソの願い通りになっているということなのか?
だとしても好かれていなさそうなのが残念である。

名声を得た人であっても、「ないものねだり」のスイッチは自分でOFFにしなければ、いつまでも起動したままなのだろう。まして凡人には、向上心との兼ね合いが難儀な話である。

5.      口より手が先に出る危険


複数人で一つの絵画を鑑賞していると、解説担当の人や何か説明をしたい人はたいてい作品のいずれかの場所を指で指す。話しながらのほぼ無意識の行動だ。相手に何かを伝えたいがあまりそうなるのは仕方ないが、できれば手ではなく言葉を使うようにしてほしい。口で言って伝わらないから思わず手が出てしまうのはよろしくない。
監視員として気が気でないのは、その指先が作品に当たってしまうことだ。人間、奥行きの目測なんて信用ならないし、まして説明に夢中になっている人の関心はその指にはないのだ。
絵の画面にアクリル板がついている作品なら作品自体を傷つけることはないだろうが、何事も絶対ということはない。しかもその美術館の方針で、かつては足元に結界となるパーティションの設置がないという環境が多々あったことで、作品へ接近するケースは多発する。

こちらとしては、気分よくお話しされている人に声をかけて水を差すなど無粋なことはしたくないのだが、この指差し行為は “お声がけ” の対象のトップ3に入る。いずれにせよ私たちも職務は果たさなければならないため、せめて声のかけ方には工夫をするよう、私は自分なりの技を磨いた。

アクリル板付の作品なら指先との距離1cmくらいまではヒヤヒヤしながら見守り、タイミングをはかって脅かさないよう声をかける。もしくは小さくて細かい作品なら最悪、指が触れたらお声がけする。いわば現行犯の扱い。そして声をかける対象はもちろん指差しをしている人なのだが、ここからさらにひと工夫。
最初にその ”指差し人” を一瞬見たあと、目が合うとすかさず連れの方のほうに目線をうつしてその場にいる全員に話すようにするのだ。こうすれば話を中断させられた人だけが恥をかくという感覚も薄まり、それと同時に "未来の 指差し人” も減らすことができるという塩梅である。これは特に若いカップルには有効な手立てであった。

また、作品を指す行為は、杖を使用しているおじいちゃんにもみられる。これはそもそも杖を持ち上げて何かに向ける行為が危険だろう。杖が手と化したかのような気になるのか、その先を作品に向けるのも危険すぎる。杖は手というより3本目の足だ。
子どもの頃は、手が使えるのに足で物を取ったりすると、行儀が悪いと母親に叱られたものである。
おじいちゃん行儀が悪いね、と冗談めいて注意したいところだが、ほんとうにこれは作品にも周りの人にも危ない。目撃した場合は「危ないのでおろしてください」、で十分だろう。ちなみにそれで反論してこられたとしても「すみません、よろしくお願いします」と軽い笑顔で受け流せば、大概のことは収まる。

このように人と対するとき、よく思い出すことばがあるー 
「 “ごめんなさい” で許してもらえる人になりなさいよ」

これはある小さな会社の面接に行った際に、代表のおじさんと話が弾み世間話をしていた中で言われたことばである。
確かに謝っているのに許してもらえないキャラは不幸だし、どこか自分を見直さないといけない気はする。しかし当時言われたときはそこまでピンときていなかった。団塊世代のおっちゃんだったから親に説教されているみたいでむしろ「あ、そっ」てなもんだった。
ところが一方で、何となくこれまでずっとそのことばは気になっていたのだ。私は基本的に知らない人と話すことが好きなので、接客のある仕事を選んでやってきた時期があるが、そんな中でこの “謝って許してもらえる” 人であることは得であることを知っていたからかもしれない。
そして美術館という特殊な場所では、老若男女、多種多様なタイプの人間に接する際に、かならず “お声がけ” の最後には「すみません」を添えてすり抜けてこられた。
お年寄り、いや “人生のセンパイ” のおことばは聞いておくに越したことはない。

6.      椅子に座らない外国人


美術館には、課外授業で来館する小学生の団体がいる。その中には多国籍の子どものいる学校からのグループもある。そこで起こりがちな現象が「床に座る」だ。
先生はだいたい立って話をするが、子どもたちはその前や周りに座って聞くというスタイルになる。あえて座らされているともとれるので、それが彼らの「定番」なのかもしれない。いかにも外国っぽい感じもする。
しかしここはニッポンである。公共の場でたとえ屋内であっても地べたに座るのはアウトなのだ。なぜなら「お行儀が悪い」し、「周りの人の迷惑になる」から。
子どもの頃からこの2つの “禁忌” を刷り込まれてきた日本人にとって、彼らの行動は許しがたいものに思う人が少なからずいる。だからといっていちいち注意をする日本人もいないため(さすがこれも日本人)、場合によっては監視員の出番となるわけだ。
とはいえ、彼らは美術のお勉強に来ている子供たちである。美術館側としても、子どもが絵の鑑賞をすることは歓迎だろう。そこで板挟みのような形となる監視員として最良の手段となるのは・・・ “シャインさん” を呼ぶことである。監視員はほとんどがアルバイト、自分で判断できないことは “シャインさん“ にお任せするのだ。そのために彼ら “正社員” がいるってなもんである。
実際彼らを呼んだからといって何か特別なことをするわけではなく、団体のことを見守って周りの観覧者へのフォローをするくらいだ。
しかしながらこれも他者の力を借りて問題を解決する、アルバイトという弱者の知恵であり工夫であろう。
それにしても彼らは「椅子文化」のはずなのに、なんでここでは床に座るのか。日本人の私にはまだ不明である。

あとがき

都会にはこんな仕事もあるんやね、と上京して初めて知った美術館での監視員というお仕事。掛け持ちでバイトをしながらの時期も含め、通算で5~6年くらいはやっただろうか。
監視員は基本的に黙ってギャラリーの隅っこに座っている。楽な仕事と思われるだろうが、何もしゃべらずじっと座っているのは、いくらおとなしい性格の人でも精神をやられる(実際病んでしまった人もいた)。それは薄暗い部屋の中で眠気に襲われることもあるため、さながらこれに耐えるだけでも “修行” といっても過言ではなかろう。まるで座禅、しかし警策を与える僧侶もいないため、自力でなんとかしなければならない過酷な修行なのだ。

またその任務として、観覧者が作品に危害を加えないよう、あるいは周りにいる観覧者に迷惑な行動をしていると判断すれば、適宜 “お声がけ” をして注意を促す。これはなかなか難儀なものである。何せほとんどの人が悪気なくそのような行為に至っているからだ。そんな無邪気な人たちへの “お声がけ” には、不快な思いをさせないよう工夫をしなければならない。まして美術館という特殊な施設に集合する人間のタイプは多種多様になる。そうなると、これまたトンチを利かせなければならないという、別の “修行” でもあった。

おかげさまで私はこの “修行” 期間を終え、今では人間に対するある種の免疫のようなものを得ることができた気がする。そして寛容な心を養えたと思う。

美術館でみつけたツッコミどころ満載のオモロイ人たち。ここに挙げたケース以外にもまだまだエピソードはある。
そんな人たちの行動を観察し、あれやこれやと分析するのは私にとっては楽しいものでもあった。あくまで仕事に活かすため、と言いたいが、それとは関係あろうがなかろうが、彼らとのやりとりによってコミュニケーション能力を鍛えられ、彼らの生態をみて人間についての勉強をさせてもらった。

どんな仕事でも、そこから得られる技があるものだ。それに、せっかく自分の大事な時間を費やすのだから、やるからにはタダでは終わらせたくない。私は “仕事好き” ではないが “経験好き” ではある。「仕事」と思えば憂鬱になるが、それが「経験」だと思えば、いいことも悪いことも “おいしいネタ” になる。それもこれも私が根っからの関西人だからだろうか。

人生折り返し済みではあるが、まだまだ新しいネタがほしいという貪欲な私・・・。すなわち、修行が足らんってやつか。
人間観察はこれからも続く。


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