食べるということ

生きるためには何かを食べなくてはならない。それが肉であろうと、野菜であろうと、この世の生き物は、何かしら他の生き物を食べることで命が成り立っている。

子供の頃、自然についての番組をよく見ていたのだけど、当時は肉食動物の捕食シーンは残酷に見えてしまい、必死で逃げるインパラが捕まらないことを願いながら見ていた。
ところがあるとき、自分も肉を食べてるということは肉食動物と同じことなんだと気づいた。

肉だけじゃない、野菜だって生きている。
生き物は他の生き物を食べないと生きていけないんだと知ったとき、この世は残酷だと思う反面、自然というもののはかり知れない大きさに感動する気持ちとで、なんとも複雑な気分になったことを覚えている。

自分が生きているということは、たくさんの命に支えられている。
自然は命が命を支えて循環している。


このことに気づいて以降、食べることに対して意識が変わった。
美味しそうに調理された料理は、単なる料理ではなく、もともとは命そのものだったと知ると、大事に食べようとか、食べることに感謝する気持ちとか、食べること自体を大切にしようと思うようになった。

「いただきます」をなぜ言うのか?
それまでは約束事のように言っていたけれど、これは命に対しての感謝も込められていたのだとわかり、心込めて言おうと思うことも増えた。


とはいえ、私の感謝の心など中途半端だと思う。
自分で動物を狩り、自分で命を絶って食べられてこそ、真の感謝になるのだとも思うから。

実際にそれを自ら行って食べられるのかと想像すると、正直自信を持っては言えない。こんなことを書いていても、心の余裕がなくなって、「いただきます」さえ言わないこともあるし、果たしてどれだけの心を込められているのか疑わしい。

それでもこの事実が今の私に良い影響を与えてくれた。
なるべく美味しく作ろう、食材の無駄を少なくしようなど、意識を変えてくれたことは確かだと思う。

もし自分が食べられてしまうのなら、せめて美味しく食べてほしい、無駄なく食べてほしいと思ったから、同じようにしたかった。
残念なことに料理は得意とは言えないけれど、出来る範囲で美味しく作れたらいいなと思って作るようになった。

以前、学校には給食費を払っているのだから、いただきますと言わせることはおかしいとクレーム!?があったことについての記事を読んだことがあった。こう思っている人は子供にもそうやって教えているのかと思うと、なんとも切なくなった。
でも、そう思ってしまうこともわからないわけではない。

お金を払えば何かしらの食べ物は手に入るし、温めれば食べられる食料もたくさんある。すでに食べ物という「物」として目の前に存在しており、空腹を満たすことは比較的簡単に出来るため、その背景にまで思いをはせることは、時短ブームの世の中においてはとても難しいことになっているとも思う。
考え方は人それぞれで、このように思う人がいるのも事実なのだろうけど、私が食べ物だったら、この人には食べられたくはないなとも思った。


自然番組も昔と今では違いがあって、昔は肉食動物が捕食に成功するシーンがほとんどだったので、狩りは常に成功するものだと思っていた。
ところが徐々に捕食に失敗する光景も見られるようになった。

子供に食べさせないとならないのに、何日も食べられなくて自分の体力がなくなる中での狩り。成功率は体力と比例して徐々に厳しくなる。

狩りが出来ないことは自分ばかりか、子供の命にもかかわる。そのために必死で獲物を狙う姿を見たら、もはやインパラに逃げてと思うことすら出来ない。どちらも命がけで生きている。

私が動物だったらこのような体験をしていたのかと思うと、人間で良かったと思う気持ちもあるけれど、同時にいかに恵まれているかを忘れているという反省も湧きあがる。

遠い未来においては、栄養は飴玉一つでまかなえる、命を命で支えなくてもいいような世界になっているのかもしれないけれど、おそらく私が死ぬまではそこまで発達しているとは考えにくい。
だからこの恵まれた状況を時々でも思い出して、少しでも感謝を忘れずに生きられたらいいなと思っている。













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