壊れちまった街
変わりゆく街、とするか、壊れゆく街とするか
将又、壊れちまった街とするか、
どちらでも、受け取り手の心がタイトルをつけたら良いのかもしれないな、そんな邪念と一緒に車を走らせていた「今」
「買い物」という日常の中でも、ど真ん中の生活導線を走るために。大したものを買うわけではない、いつもの食材を買い出しにいく車内。
ふと、久しぶりの道を通過したからか、左側の景色が10年前以上の景色と重なっては弾けて消えた。まるで、シャボン玉がぶつかり合って消えるみたいに。
変わっている景色は勿論、知っていたし、そんなに久々でもない。何故か今日は、今日に限っては海馬という記憶を司る脳の司令部が、10年以上も前の、その場所の風景と香りをつれてきた。一瞬、壊されてしまって今はもう無い建物が浮遊する。視界には新しい建物が建っているのに。視野は「新しいもの」を捉えているのに、なんだか不思議だ。ふと、車内で聴いている音楽の歌詞がきこえる。
「あのまちを出ました、あれやこれを捨てて、このまちに来ました、夢一つだけつれて」
私の感情は、もしかしたら、耳からの感傷が心を動かして、今日は、あの日に飛んだのかなと思えた。でもまた、無意識に、私の若かりし過去まで古い建物と共に消えてしまった気がして何だか悲しくなった。でも消えていないから、いま、こうして私の視野にはあの日がみえているんだとも思えた。
当たり前だけど、古びていくもの、壊れていくものがあり、新しくうまれてくるもの、出来上がってくるものがある。その中で私たちは生きているのだから。
「壊れちまったな」
何故だか、そんなキザな言葉遣いが口をついた。でも、そのずっと昔から人間は、人間の一日は、それぞれの一瞬は、新たに誕生し、壊れて、また、新たに作られていくを繰り返してきた。人体の細胞と同じだ。だから、壊れたもの、壊れてしまったもの、壊れちまったもの、記憶、景色、経験など全て、「今」存在するこの日常の一部に溶けこんでいる。そのカケラたちが今の土台を作ってる。そんなあたりまえ。
そう、思うと、壊れちまった風景がとても愛おしくみえた。
そう、思うと、新しい建物がとても愛おしくみえた。
※音楽の歌詞引用は、Ivy to Fraudulent Gameの「あのまちこのまち」という曲です。
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