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鬼軍曹に育てられた私が語る「厳しい子育て」の弊害と効果

Netflixで「Anne with an E」つまり「赤毛のアン」の物語を観ている(とても素晴らしいので是非に)

孤児であったアンを引き取り父母のように彼女を育てたマシューとマリラ。
マリラは心根はとても優しいが厳格で、いわゆる"カタブツ"タイプの女性。奔放なアンを頭ごなしにガツンと叱るシーンも少なくない。

だがそれはアンを心から愛するからこそのこと。心配のあまり過保護になったり過干渉になる気持ちは、いまや親である私もわからなくはない。

一方でいつもアンの気持ちに寄り添い、よき理解者であり続けるマシューはマリラに言う。「君のやり方は間違っている。アンは幸せになるべきだ。僕たちはその手伝いをするべきなんだ」と。

この一連のやり取りは、子として、親として、いずれの立場からも考えさせられるものがあった。

鬼軍曹タイプの父

私の父はまさにマリラタイプの保護者であり、冒険心と好奇心に満ち溢れていた10代の私にはものすごく窮屈な存在であった。

父と母は「the昭和の夫婦像」そのもので、「一家の大黒柱」である父の言うことは絶対。
家族の中で誰も逆らえるものはいなかった。
叱り方も迫力抜群だったため、さすがに殴られたことはなかったものの、髪の毛をザクリとハサミで数十センチほど切られたり、湯呑みが飛んできて壁に穴が空いたりと中々に強烈だった。

とにかく怖い。
思春期の私にとって父親は恐怖の象徴でしかなかった。
いい父親の側面もたくさんあり、一緒に映画に出かけたり、趣味の話をしたりするのは楽しかったし、尊敬しているところも多かったが、それよりも何よりも少女の心には「恐怖」の方がインパクトが大きいのである。

叱られる時は大体正座をさせられて、ひたすらに父の説教をきく…というのがいつものパターンだった。短くて1時間、長い時は深夜まで4時間、5時間と終わらない。はっきり言って、1時間を超えてくると子供は内容なんて大してきいちゃいない。

「いつこれ終わるんだろう」「どうすれば終わるんだろう」と考えを巡らせているうちはまだいい方で、その後はもはや全く関係ない想像をひそかに脳内で展開し、時間が過ぎるのをただただ待っていた。

4.5時間怒り続けるというのは親としてもかなりの体力を消耗していたはずだ。
それでも子供にわかってほしいからそうしているのだろう。
だが、当の私は反省するどころか、好きな漫画の主人公のことなんかをぼんやり妄想しているのである。もちろんそんなこと気付かれないように深刻な面持ちで。

そしてひたすらに叱られ続け、妄想のネタも尽きた私は、最終的に「どうやったら親の説教から逃げ出せるのか」の答えを見つけるまでに至ることになる。
最初は涙を流しながら、父の説教に耐えていた私だが、泣いても何も解決はしないし、叱られる時間も短くはならない。

一体どうすれば。それを考え尽くした結果出た答えが「親の愛情を利用する」ということだった。

一般的に親は子を愛しているからこそ厳しくするのである。我が家の場合、それは疑いもない事実であった。
「18時までに帰ってこい」「外泊をするな」「勉強をしろ」「テストでいい点数をとれ」「悪い友達とつきあうな」これらは全て親として子を守りたい。少しでもいい人生を歩ませたいと思って言っているのだろう。

だから私はある日プツンとキレて見せた。
感情的なキレではない。冷静に覚悟を決めたという姿勢で「じゃあ私は家を出て行きます。まだ高校生だから中々働けないかもしれないけど、どんな手を使ってでもお金は稼ごうと思えば稼げるからそうやって生きて行きます」そう親に言って荷造りを始めた。

この時私は生まれて初めて父親が折れるのを見ることになる。正面切って折れたわけではなかったが、さすがに父もまずいと思ったのだろう。
明らかに態度を変えてきたのがよくわかった。

実際私は、例えば若さや女を利用して生きていくほどのしぶとさは持っていなかったし、高校は卒業したいと思っていたので、本気で出て行くつもりはなかった。

作戦としては大成功である。結局親は子にそういう「覚悟」を決められたら折れて引き止めるしかない。これが親子の関係性の特殊なところだ。
例えば会社と従業員なら「辞めますよ」とチラつかせたところで、ほとんどの場合「はいどうぞ」で決着がつくのだから。

「厳しく育てる」ことの効果

親に厳しく育てられたことで、感謝している部分も多い。私の打たれ強く、ガッツのある性格は間違いなくこの環境で培われたものだ。
社会に出ていろんな人に叱責されたり、ひどいことを言われたりしたが、大抵の場合「お父さんの方が怖い」と感じて大した精神的ダメージを受けなかった
逆に周りで凹んでる子や泣いてる子を見て、世の中の人はこれくらいのレベルが辛いのか…!と衝撃を受けたくらいである。

だが自分が親の立場になったとき、同じような子育てをしたいかと言われると、答えは「絶対に絶対にしたくない」である。
私にとって父の存在と、彼との関係性はものすごく複雑で、好きだけど1番嫌いな人物と言っても過言ではないのである。
子どもにそんなふうに思われるなんて、私的には耐えられないし、冒頭に書いたように子どもに、親の愛情を利用して…という思考をさせるなんて、何だか悲しい。

だからといって甘やかしたいかと言われるとそれも違う気がしている。
父に厳しくされたことで、得たメリットもあるからだ。

非常識だと言われたことはないし、
仕事ではだいたい「きちんとしている」と言われる。
人生でそんなに間違った選択もしてこなかったと思うし、何よりも先述の通り、私にはガッツがある。(むしろそれしかないというツッコミはおいておく)

「叱らない育児」が世のトレンドではあるが、本当に叱られないで成長した人で、ちょっとヤバめな人も何人も見てきたので、「叱らない」=「良く成長する」というのも個人的には少し違う気がしている。

勉強が嫌いな成績トップ

今時点で私が自分の経験から感じていることは、「何を厳しくするか」という基準を設けるのと、その内容の大事さである。

例えば私が自分の人生でものすごくマイナスに感じているのは「勉強が嫌いになった」ことだ。

ものすごく秀才というわけではなかったが、私は小さい時からそこそこ勉強ができた。
小学校に入る前から、低学年で習うような漢字は読むことができたりと、中でも国語は得意だった。

高校に入ってからも(中堅レベルの高校だったからだが)テストの平均点は大体95点。
学年でいつも1.2位のポジションを獲得していた。

でも私はずーーっと「勉強が嫌い」だった。

塾などには通っていなかったが、父は成績には厳しく、私のために自作のテストを作成したりと、中々に教育熱心であった。
父の言い分は「頑張っても赤点しか取れなかったらそれはそれでいい。でも頑張らずに80点なら許さない」というものだ。

その主張については筋が通っているなとは思うものの、一方で子どもの私としては「それは建前でしょ?」とも冷静に感じており、結果「だって私の頑張りがどれくらいかなんて親に評価できるの?面倒だし怒られたくないから、とりあえずテストだけは頑張って何も言われないようにしよう」という思考になってしまった。

これは今思うと最悪の展開である。
私の勉強のモチベーションは「新しいことを学びたい」でも「世の中をよくしたい」でもなく「親から叱られたくない」ただ一点だけだったのである。

そのため、普段授業は適当にきいたりしていたが、テスト前になると3日くらいほぼ寝ずに勉強して、短期記憶だけで勝負して、何とかいい成績を保持していた。

短期記憶なので、その後はそれだけ頑張ったのに一切内容は覚えておらず、大人になってたら「もっとしっかり勉強しておけば…!」と自分の教養のなさを悔いたことも多い。

心から好きだった「読書」

一方で、小さい時から一貫して好きだったのが「読書」である。
それが「勉強」だと感じたことは一切なく、国語の授業はいつも純粋に楽しくて好きだったし、何なら興味のない科目のクラスはサボってずっと隠れて本や辞書を読んだりしていた。(今考えると変だけど辞書を読むのも好きだった)

そのため国語の成績は常にトップだったし、成人して編集の仕事にも就けた。
こうやってnoteに投稿を続けていることからもわかるとおり、文章を書くのもいまだに大好きだ。

先程の「親に叱られないために勉強する」というのとは真逆のモチベーションである。
楽しいからもっと知りたい」ただそれだけのシンプルな動機なのだ。

私はこれが勉強の本質だと信じている。
楽しくないと、人は学べないのである。興味のない状態でいくら「勉強」に時間を費やしたとしても、それは本質的な学びではない。

私の場合、大人になってからのほうが学びが楽しい!と思うことが増えた。
それは自分の仕事や人生に必要な情報を能動的に取得しようとしているからである。

学びを楽しくする努力しかしない

ということで、私が子どもたちの教育に関してやろうと思っていることは、突き詰めるとこの一点のみである。

子どもたちの学びを楽しくする環境を整える

ドリルを解かせるでも、幼児教室に通わせるでも、名門の塾にいれるでも、読書の課題を課すでもなく、それぞれの性格と嗜好、そして成長の段階に応じて「どうやったら楽しく学べるか」を常に考える予定である。

現時点では3歳の長男の喜びは「自然の中での外遊び」にあるため、前回のポストで書いたようにとかく野外活動に力をいれている。


虫の名前、生態、草花の種類なんかはもちろん、おもちゃを使って水遊びをすることで力学的な発想も得たりできている気がする。
例えばこれを科目名にすると「生物」とか「理科」になるのだろうが、生物を勉強しよう!と思ってテキストを開くのと、自分の生活の中から学ぶことでは、理解度が大きく違ってくるはずだ。
私にとっての「国語」がまさにそれだった。

極めてラッキーな環境であることは確かだが、英語だってそうである。
息子たちにとっては、英語は学問ではない。
英語ネイティブの父親と会話をするための、コミュニケーションツールなのだ。
彼らにとってはそれって、好きも嫌いも、さらに言うなら得意も不得意もないよね?という感じなのだと思う。(何て羨ましい…)

何を厳しくするか

では、いったい何を厳しくするかという話に戻る。ベースとなるのは「人に迷惑をかけない」ことかなと思う。

これも言うのは簡単だが、迷惑をかけるのがライフワークみたいな子どもに対しての躾の観点で言うと、実はかなり難易度が高い。

先日子どもたちを連れて、じゃぶじゃぶ池で水遊びをしていたのだが、そこでテンションのあがった長男が、近くにいた違う子のお父さんに水鉄砲で水をかける事件があった。

近くにいた夫と私は慌てて「すみません!」と謝ったのだが、夫はそのまま長男に「パパにはかけていいけど、違う人にはかけちゃダメだよ」と伝え、謝罪を促した。

長男は不貞腐れて「いやだ!」と謝ろうとしない。
「sorryは?」「やだ!」「謝らなきゃダメだよ」「やだ!」という攻防が数分は続いただろうか。

被害にあったお父さんもいい人で「もういいですよ」なんて言わず、長男に目線を合わせて座ったまま、ずっと待ってくれていた。

私も同様の場面で、大抵は夫と同じ行動をとる。でも、何度言っても謝らない場合、正直途中で諦めてしまう気がする。
「もう本当にすみません…」と親が代わりに詫びる形で。

でも夫はビックリするくらい諦めなかった。
え、もういいんじゃない…そのお父さんを待たせるのも悪いし…長男も意固地だから絶対時間かかるし、下手したら泣いて暴れだすし…と私は横でヒヤヒヤしていたのだが、夫は頑なに「sorryは?」と長男に言い続ける。

私は絶対に長男がぐずって終わると思っていたのだが、何と彼はその後気まずそうに、また小さな声ではあったが「Sorry...」と言ったのだ。
すぐさま夫は長男を抱きしめ「ちゃんと謝ってくれてありがとう」と伝えた。

これが躾か…!と私は1人で感動を覚えていた。
全く、夫にはいつも学ばされる。
小さな事ですぐにピリピリしてしまう私と違って、夫の躾は冷静で、一貫性がある。(たまに疲れて精神的余裕を失ってることもあるけど)

叱るポイントは「人に迷惑をかけない」それと「危険なことはしない」この2点だ。
どれだけ暴れてもいいし、ヤンチャしてもいいが、上記の行動は我が家では許されない。
しっかりと叱責される。

「人に迷惑をかけない」は私たち親に対しても同じで、もちろん子どもだから迷惑をかけずに生きてはいけないわけで、ある程度は許容するのだが、度を超してくるとピシャリと叱っている。

夫はよく「ママが頑張って長男くんのためにやってくれたのに、それを無下にしたらママかわいそうだよ。ちゃんとsorryして」というような叱り方をする。
親であっても尊重すべき他人なのだというメッセージである。
しかもその後「マミー、ビューティフルってもいうんだよ」というおふざけ要素を追加するのも、またバランスが良い。
(そんな長男は現在「ママかわいいよ…」と私の髪をなでながら言うなど、キムタクみ強く成長中)

子育てがうまくいっているのかは全くわからないが、少なくとも長男はとても性格が優しく、イヤイヤ期も相まってヤンチャで自制はきかないが、人をむやみに傷つけることも、暴言をはいたりすることはなく、また、決して危険な行動もしない。
(自転車に乗っている時に歩行者を避けようと車道側に出ると、いつも長男に「ママ!あぶない!気をつけて!インサイドに入って!」と言われる。笑)

水かけ事件のように、遊んでいる中でテンションが上がって故意ではなく迷惑をかけてしまったり、弟にオモチャを取られて怒るようなことはあるが、基本的には誰しもに無償の愛を注ぐ、自身も完全な愛されタイプである。

私を支えるマシューの言葉

まだ幼児なので、正直これからのほうが教育の観点で言うと大変だと思う。
成長とともに、精神的な複雑性が増えることは容易に想像がつくので、親としてどういうスタンスをとるのかとても悩む。

今の「何を厳しくするか」「しないのか」の基準についても、その時々で変えていくようになるだろう。
その日が来るのが、不安でもあるし、楽しみでもある。
その時にマシューのこの台詞を思い出したくて、こうしてnoteに残しておく。

アンは幸せになるべきだ。僕たちはその手伝いをするべきなんだ

本質に立ち戻ろう。
親としてどんな手伝いをするのが最良の選択なのか。
自分や夫の経験から、合理的にルールを生み出そう。

今「子育て」は私の最大の学びである。
大変だけど、やっぱり楽しい。
もっともっと、私は学びたい。その欲求に今溢れている。



本代に使わせていただきます!!感謝!