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何が私を駆り立てたのか [赤編]

元気のない石田祐規

2015年。ぼくはどうやら調子が悪かったらしい。2015年。どうやら遠くで鐘が鳴っているらしい。僕は渋家に住んでいた。26歳だった。テレビでは「オリンピックの建築家が白紙」になったり「エンブレムが変更になる」だので騒いでいた。自分ではあまり自覚がなかったが、としくにさんいわく同じ場所に居続けることで「自家中毒」になっているのではないかという分析だった。当時はその単語にピンとこなかったが、たしかに言われてみれば2012年の「イケハピ」での挫折から、いまいちバッターボックスへ立つのが億劫になっていた。今思えば軽い鬱傾向だったのだと思う。根暗で、ネガティブで、物事を悲観的に捉えていた。はたから見て「ヤバい人」の完成である。そんな僕と当時一緒に暮らしていた渋家の仲間には申し訳なさしかない。ただ、当時の自分にはまったく自覚がなかったのであります。マジで。

沖縄への移住

そんな地獄みたいな2015年の折である10月22日の渋家パーティーにに手塚太加丸がやってきて、ナハウスを3月で閉じようと思っている話をされた。「嫌だ」シンプルにそう思った。ただの延命になって終わるエゴかもしれないけど、おれが1年間移住するからあと1年だけ続けてくれ。そんな僕なりの愛が歪んだ(?)お願いをした。太加丸はOKしてくれた。やった。

個人枠としてナハウスに参加するのではなく「渋家の枠」ということでその象徴的存在として僕はナハウスへ4月から移住することになった。なんとありがたいことに、としくにさんから毎月2万円の支援を申し出てくれた。(その金額はナハウスのメンバー1人あたりの運営費であった)つまり生活費は沖縄で稼いで来いとのこと。1年間の沖縄生活で何ができるだろう。2012年1月にスタートしたナハウスはさまざまな歴史を経て2016年の3月に閉鎖することになっていたが、僕の勝手で歴史を改変してしまった。このような場所が失われてしまうのが防げる可能性がわずかでもあるのなら人生の1年を捧げてみよう、と僕は気持ちが少し上向きになっていった。

沖縄ではさまざまな出会いがあり、自分にとって想像以上に実りの多いものになった。真面目に個展をやったことも大きかった。東京からいろんな人が来てくれて、多くの人に沖縄の魅力を紹介できた。そして約束の期限である2017年3月がやってきた。

ずっと不安だった「1年だけの延命になってしまうんじゃないか」という恐怖は、無事に人数が増えて僕がナハウスを抜けても存続する形になっていた。最終日は沖縄のみんなと泥酔するほど飲んだ。へべれけで那覇空港へ向かったような気がする。

lute株式会社時代

2017年4月に東京に帰ってきてからはなぜか大忙しだった。人生で一番忙しかったんじゃないだろうか。今もこうやって文章を書いていると当時の「気を張っている自分」が蘇ってきてドキドキしてしまう。

僕のいない2016年の間に渋家メンバーは会社を作り、「渋家」と「渋家株式会社」が両方渋谷に存在する状況になっていた。KENTや、藤田直希今井桃子DEMIさん、齊藤広野など今やみんな名前を知っている面々がここでは無名の人たちとして存在していた。──とき同じくして7月、資本金1億4440万でlute株式会社が渋谷区に創業された。

2017年は渋家が生まれ変わる年で、19歳の新代表KENTを祭り上げるべく渋家内部はてんやわんやだった。写真家・山本華に写真を新しく撮影してもらったり、メディア掲載のための文章を考えたり、チーム内部の組織体制を改めたり、さながら映画「メリーポピンズ」の冒頭10分間のようにぶっとんでいた。

10代目代表となったKENTによる第10期 渋家のテーマは「パーティーメーカー」。今後、渋家の地下、東京都内のクラブやイベントスペースにて、音楽を中心とした新プロジェクトを発表していくという。

新しいテーマとして「パーティーメーカー」というのを掲げて、場所は渋家の内部外部にかかわらずイベントを開催していく方針となった。毎月22日のパーティーは毎回担当が変わるようになり「ただのホームパーティー」から「色のあるパーティー」へと変貌を遂げていったのもこの時期だ。

その後、渋家メンバーの芳賀さんからlute株式会社に来ないかと打診があり、秋に渋家を抜けてパラスト(渋家から徒歩5分のところにある元渋家メンバーがやっているシェアハウス)へと引越しをした。19歳から8年間住んだ渋家とのお別れだった。

luteも面白い物語を持っている会社で、もともとはエイベックスグループの社内ベンチャーだったものを、融資を受け別法人として改組したものだった。渋家や沖縄での話をしたらすぐにその場で採用が決まった。いざ内部に入ってみたら、これがまた映画みたいにはちゃめちゃだった。

誰かしらが喧嘩していて、誰かしらが泣いていた。4階建の小さな小さなオフィス。それぞれのフロアでドラマが起きていた。最初の仕事は人を休ませることだった。役員の一人が文字が読めなくなったと相談してきたので、その話を聞いた後これは鬱病の症状だと思い、すぐに五十嵐社長に休ませるように提言しにいったのを覚えている。今から思えば、役員内で心理的安全性が確保できてないってなんなんやねんという話だが、当時の僕はずいぶん誠実に立ち回ったことを覚えている。(後にこの立ち回りが自分を苦しめることになるのだが)

止まらない退職者

luteでの役割としてはコミュニティーマネジメントだと思って動いていた。渋家やナハウスで培った問題解決能力を、会社という法人格でのノウハウに落とし込む。心理的安全性が確保でき、社員全てが正直ベースで話を進め、適切なタイミングで喧嘩が沸き起こる。それによって社内文化というものが醸成されていく、そんな状態が理想だな、と最初にこの仕事を定義した。

最初の1ヶ月はうまくいっていたように思う。まずは社内にコミュニティ・マネジャーという(2017年においては)訳の分からない役職の人間が存在しているよりかは、総務部の一員として存在した方がいいと思ったので社長との最初の面談を通じて、まずは総務部として入り込み社内の人間関係を把握する。

前述の休職した役員というのがたまたま総務部を担当していたこともあり、空いた分の総務仕事の多くを気を使って「自分がやります」と言って引き受けてしまった。気づいたら社内で一番遅くまで残業する「忙しそうな人」になっていた。おかげで総務の仕事を覚えたし、社員全員と仲良くなれたのはラッキーだったが、それと反比例して社内の雰囲気はどんどん悪くなっていった。

無事、会社のさまざまな相談を受け付けるポジションになれたが、11月に入ってから退職者の相談を受け、社長との面談を設定しても何もかもがうまくいかなくなってしまった。お互いに平行線で、どちらの言うこともわかるが、ここは立場が上の社長が引かなければいけないタイミングで引くことができなかった。社長というポジションは絶対的に理不尽だ。社員の子供みたいな小さな苦しみや悲しみを引き受けなければなからなかった。「会社は幼稚園じぇねぇ!」と、そういった面倒ごとを切り捨てる判断を、僕は否定できない。それを飲み込んだら社長自身が渦に飲まれてしまうことも想像できる。組織のリーダーというのは理不尽なことにぶち当たる。その理不尽さをどう飲み込むかが経営の肝なのだろう。

その日から退職者は止まらなかった。並行して毎日のように新しい人と面談をして、どんどん人を入れていたので、ボリュームは変わらなかったが、退職者はみんな悲しい別れ方をした。彼ら・彼女らには悪いことをしたと思っている。僕が最後まで社員の味方をして、いつでも戻ってこれるようにするのが仕事だったのに、社長を御しきれなかったことでかなりの精神的ダメージを与えてしまった。

社長とはいろんなことを話した。ある社員の偵察だったり、はたまた「あの辞めさせ方は正しかったのだろうか?」という振り返りだったり、投資家からの厳しいプレッシャーの話だったり。社長自身がもともと総務部の出だったので、仕事についてのアドバイスを受けたりした。理解理解の連続だった。その根本は構造にあることだった。luteというメディアのみの収益だけだったので当然資金は足りず、毎月のように資金注入があり、株式を増加させ、契約書を作っては株主全員に発送した。

今から振り返れば、ステークホルダーが増えすぎていたのだ。会社の経営について口を出す(僕が見たこともない)外部の人が多くなっていた。ああ、「船頭多くして船山に上る」ってことわざはこんなときに使うのか。社長は社長なりのビジョンがあった。インスタに詳しい若手が自ら番組を発起してメディアを盛り上げていく、そんなイメージが見えていた。僕も共感した。だからここにいる。だけど投資家の◯◯さんは「そんな即戦力じゃない若手ぜんぶクビにして、30代以降の実績ある人を雇って」と言ってくる。そのことについて社長はずっと悩んでいた。自分のビジョンが正しいのか、投資家のアドバイスが正しいのか。

その日の朝はずいぶん早かった。社長が僕に「全員との面談を設定して」と言ってきたので、社員全員と社長の一対一の面談を設定した。20代の若手のスタッフが自主退職に近い形でどんどん辞めていった。詳細はあえて聞かない。そして年齢層が上の、映像も営業もずっとずっと上手の人が入社してきた。シンッっと静かになったオフィスで新入社員(といっても僕より年上である)のオリエンをしていたのを覚えている。

次は僕の番だとなんとなく察していた。なぜなら僕より年下の社員がみんな辞めてしまったのである。人がいないのに「盛り上げ役」だけ存在しているなんて滑稽な話だ。社長も言い出せなさそうな雰囲気だったので、自分から適当なことを言って辞めた。外に出ると息が白かった。

渋家株式会社・文化事業部へ

後にも先にもあんなに忙しいことは人生で初めてだったので、2017年から2018年にかけての年末年始は沖縄でのんびりした。沖縄は奇跡のような暖冬で、昼間の気温は20度を記録するポカポカと暖かい気候だった。お正月をTシャツ1枚で過ごしながら僕は去年の忙しさを夢のように思い出していた。1月9日からはずっと前から誘われていた渋家株式会社への入社だ。

文化事業部というところが立ち上がっていて、齋藤恵汰西田篤史松島寧子の3人がいたところに僕がヌルっと入っていった。

これまで弱かった広報・ネットワーク・環境整備などを補填するべく、当面は目の前に落ちている仕事をしていた。huezの現場にも何度か行かせてもらって、LEDテープの配線などを覚えた。

記憶に残ってるのは、上坂すみれさんのMV撮影現場に駆り出されたとき、僕らはレーザー・LED照明チームなので本人が来る前にセッティングするだけ。本番中はやまげさんがオペするから、僕は撮影クルーを眺めながら、照明の組み方とかトレペってこんなに大きく使うんだ〜と勉強になった。撮影中はスタジオの外に出て雨をシトシトと眺めていた。この記憶がなぜか強く残っている。

初年度はかなり自由にやらせてもらったし、かなりメンタルケアに入ってもらった。huezの人間関係は基本的にとしくにさんが見てくれていたし、文化事業部は人間関係でのトラブルはほとんど無かったので(と、僕は観測しているけど、実は裏でとしくにさんが動いていたのかも)人間関係調整のための苦労はほとんどしなかった。どちらかというと若手に完全に引きついた新生渋家の様子を見にいったり、退職者と連絡を取って様子を確認したりなど、業務外業務(?)のようなことをしていた。渋家は若い子たちに任せたけど、ネットワークを広げるために「パーティー」は開催したいよねということで、株式会社ロフトワークさんと共同でパーティーを開催したり。(これは後述するね)

それより5月といえば渋家10周年イベント。準備は僕がluteにいる時期に進められていたので、僕はほとんど準備には関わらず、SHIBUYA 109屋上にて公開撮影ということで毒キノコピンクのファッションブランド「killremote」の撮影を行なった。DJあり、ダンスありの夢のような時間だった。片付けは雨が降ってきてヘトヘトになった。

6月からは東急電鉄の渋谷まちづくり担当の方と、ロフトワークさんでやっている「SHIBUYA HACK PROJECT」に関わらせてもらい、渋家代表のKENTを筆頭に藤田直希と渋谷の新しい視点を見つけるリサーチを行なった。「渋谷の泥だんご代表」としての役割は果たせたのだろうか。

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(渋谷ハックプロジェクトのURLが死んでいたのでキャプチャのみ)

「渋谷ヒカリエ」のがっかり感=(言葉だけかっこよくて、実態は既存の商業施設)からずっと東急さんには不信感があったんだけど、渋谷まちづくり担当の若い人はちゃんとそのことを自覚していて、ゆっくり上層部を説得しているという話には勇気をもらった。

とはいえ渋谷が文化の街になり、盛り上がり、商業施設だらけになり、街に隙間が無くなり、文化が生まれなくなり、衰退するという一連の流れは50年〜60年ぐらいのスパンで起こることなので、それを人間が知覚するのって無茶な話だし、そこに関して期待をしてもいけないものなのかもしれないけれど。──そして僕はBABFという沖縄でのブックフェアを作っていくことに専念し始める。

"目的の無い"パーティーを続けよう

梅雨の株主総会を経て、7月1日に渋家株式会社渋都市株式会社に名称が変更した。さまざまな名前のアイデアがあったように思うけど、けっこうすんなり「渋都市」と書いて「シブシティ」と読むことに決まった。ロゴデザインはデザイナーの岡口房雄さんに直接連絡をとって作っていただいた。初めてデザインを発注する側になったので緊張しました。「家から都市へ」というイメージが社内で共有できていたので、たくさんリテイクすることなく完成。

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その後、Loft workさんと7月にパーティーの試作品を開催し、10月10日に本ちゃんの「目的のないパーティー」を開催。コンセプトデザインはほとんど西田篤史さんがやってくれたので、僕はサポート程度だったけれど。

「異業種交流会」に代表される大人が名刺交換だけを目的に集まる嫌〜な感じから、ちゃんと学びもあり、カルチャーブースもあり、美味しい料理もあるという、私たちなりの大人のパーティの形が見せれたと思う。

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このパーティーが終わると僕はすぐに沖縄に移動した。初めて沖縄でブックフェアを開催する。10月19日からの開催だが、7日前には現場入りして太加丸と机を作りまくっていた。肉体を動かすのは気持ちがいい。このイベントで僕は運命を変える出会いがあるのだが、僕は知るよしもなかった。

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この頃は齋藤恵汰による批評誌『アーギュメンツ』の販売も佳境だったので、全国に発送したり、このブックフェアでも販売した。ポスターにパンフレット、グッズの作成、告知、出展者とのやりとり、協賛企業とのやりとり、会場設営などイベントの楽しいところを丸っと味わった。「気分で決めればいい。」という名コピーは又吉美輪によるもの。このイベントで沖縄の知り合いがグンと増えた。

イベントは無事にトラブルなく終了し、怪我なく大成功だった。そしてひときわ輝く面白い男がいたのである。彼はのちに僕を台湾へといざなう事になるキーパーソン‪増田捺冶‬だ。

(ここで‪彼と意気投合して台湾に行く約束をしたのだ)

‪増田捺冶‬と台湾編

ブックフェアのあと‪増田捺冶‬は台湾へ帰っていった。僕は5日ほど片付けの日程を取っていたので片付けをして帰京。

その後、なんやかんやあって台湾に行った。なぜかはよく覚えていない。きっと沖縄で約束をしたのだろう。そして航空券が鬼のように安かったのだろう。

まさか本当に台湾に来るなんて!」と驚きながらもこの日から‪増田捺冶‬のアテンドが始まった。(どうやら僕が台湾に行くという約束は彼の中で冗談になっていたらしい。)今はなき「草御殿」に行ったり、「夢想社區」という世代が上のコミュニティに行ったりして、場所に対するセンスが大事という話を‪増田捺冶‬とした。「宝蔵巌国際芸術村」などは場所の魅力がヤバかった。絶対に日本では真似できない魔力に溢れていた。「石田祐規が台湾に来て思ったことと、私の再来」という記事を中国語で書いてもらう。

そして日本に帰る2月21日に‪増田捺冶‬の過去の作品『それらしさと、あの日の雨。』をプレゼントしてもらった。中身は詩集である。飛行機内で全部読み進めて、そのまま自分でも返答の詩を書いた。ハンムラビ法典にも書いてあった気がする「詩には詩を」って。この世で生きることの悲しみを、悲惨な役割を引き受ける苦しみを、終わらない日常で溶けていく時間への愛着を……言葉にできない想いを言葉だけで受け取ったような気がした

興奮していた。自分なりの返答詩をiPhoneで書き終わったころには飛行機が着陸して、そこでは羽田空港の匂いがした。

大喜利も、フリースタイルにも参加しない人をもう信用しない。私は学んだ。偶有性の海に飛び込み、自分と他人の境界を曖昧にする人だけが信頼できる。

ディズニーランド、の外壁だけを触ってグルグル歩いてる。この大名行列の名前を知っている。「何者かになりたかったけど、なれなかったよ」という贅沢な発言が許された配列を平成と呼ぶ。(後略)

1500文字ちょっとの詩のカタマリを羽田空港のwi-fiを使って‪増田捺冶‬に送った。そして小一時間Line通話した。どんな声でどんな話をしたかはもう覚えていない。詩集を読んで僕はずっと‪増田捺冶‬に対する解像度が高くなっていたし、‪これだけで終わらせたく無いという気持ちがあったように思う。絶対そうだ。

次の元号はなんだろう?

テレビは天皇の生前退位で賑わっていた。2月25日に「文喫」で永田希さんがアジアに関する選書会をしてくれたことを思い出した。この日は大事な日だ。なぜなら‪増田捺冶‬と雑誌を作ることが決まった日だからだ

雑誌の内容は何も決まっていない。ただもうすぐ元号が発表されるからという理由で「次の元号をそのままタイトルにしよう」ということだけが決まっていた。16ページぐらいの小さいzineを作ろう、そういう話だった気がする。‪増田捺冶‬と何か小さくてもいいから作品を作ることによって関係を永続なものへと変換したい、そういう自分の中の小さな欲望だ。

文喫で永田希さんとアジアについて話しているとき、‪増田捺冶‬から電話がきた。内容は「zineのように小さく」いくか「雑誌のように大きく」行くかの話し合いである。悩んだけれど、その場で大きく行く選択肢でいくことに決まったような気がする。まだ元号が発表されていなかったので仮に「new gengo(ニューゲンゴ)」と名付けることにした。胎児ながらもこの日から小さな雑誌は名前を得た。輪郭はまだない。

その日から毎晩のように‪増田捺冶‬と電話をして、朝を迎えるまで話した。いろんな人にこの時代を描いてもらうことにした。脚本家のボブ・ゲイルが実家に帰ったときに父親の卒業アルバムを見て "同い年の父親と仲良くできるだろうか?" と考えたエピソードをきっかけに、テーマはタイムマシンに決まった。特集ページのタイトルは「30年後の自分に伝えたいこと」「子供が同い年になったら伝えたいこと」などさまざまな案が出たけれど「言いたかったけど言えなかったこと」に決めた。ふんわりとテーマを隠しつつ、その人自身が裏庭に置いてある想いなどが出てきそうな感じがとても好きだった。

とはいえその頃には2月も終わり、元号の発表まで1ヶ月を切っていた。130ページの雑誌を作りきるには時間が圧倒的に足りない、と今思えばそうだけど当時の自分にはそんなことは考えていなかった。絶対に間に合わせる。必ず4月1日から予約サイトを立ち上げると心に決めていた。

脳が覚醒状態で睡眠時間が少ない日々が続いた。気づいたら3月も終わりで、実制作と同時に告知や広報、出版イベントも進めなければならない。1日に判断しなければならない量が膨大だった。告知動画を作ったり、webサイトのデザインはあーだこーだ議論したり、集まり始めた原稿をデザインに落とし込んで行ったり、朝から晩までつきっきりになった。4月1日からサイトのデザインを全部変えようという話になり作業量はいきなり倍になったりした。(すでにデータは存在しないが元号発表前までは黒背景で藤子・F・不二雄をモチーフとしたものになっていた。権利的にもアウトである)

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(この画像を拠点として世界設計を決めていった)

内容もタイトルも決まっていないのに、締め切りだけがある。そんな自分たちの状況と、ドラえもん連載前の状況が似ていたのでモチーフとして使ってしまった。藤子先生許してください。僕はあなたのチルドレンなので。

すごーく おもしろいんだ!
すごーく ゆかいなんだ!

当時のこのキャッチコピーは表には結局出さなかったけれど、僕と‪増田捺冶‬の間では暗号というか、社訓のように機能していたように思う。理外の面白さ、利害を無視する愉快さ。そんなダブルの面白さを端的に表したキャッチフレーズはなんども口に出して確認した。

(長くなったので後編に続きます)

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