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「絶望を希望に変える経済学」(バナジー&デュフロ)

課題図書として「絶望を希望に変える経済学」(日本経済新聞出版)を読んだ。短時間で読めた背景には、やはりピアプレッシャーの効果が大きく、ありがたく思う。

2019年ノーベル経済学賞受賞者であるアビジット・バナジー教授とエステール・デュフロ教授の共著。彼らの授賞理由は、ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial: RCT)というフィールド実験の手法を用いて、途上国での貧困解消に向けた特定の政策の効果を科学的に測定したというもの。わたし自身が大学で開発学を学ぶ上で、教科書の事例として見覚えがあるほど一般的になっている手法だ。

開発経済学におけるRCT研究は急速に普及し、新たなスタンダードとなった。それどころか、開発経済学を経済学のトップフィールドの一つに押し上げる契機となり、もはや「革命」と言っても過言ではない。(引用:IDE-JETRO

この著書では、
移民は受入国の賃金や雇用にネガティブな影響を与える
貿易は貧困の削減に役立つ
・人は経済的メリットのために土地を移動する
・経済成長すれば、富裕層が得る利益でゆくゆくは貧困層も恩恵を受ける(トリクルダウン効果)
・無条件に現金を渡すと、浪費や怠癖につながる

など、経済学者が、いや一般の素人も直感的には頷いてしまいそうな「定説」に待ったをかけている。

そしてもちろん、エネルギー効率化プログラムやベーシックインカムなど論点の検証にバックアップに、彼らの勲章ともなったRCT研究も度々顔をのぞかせる。

経済学者が経済成長について疑うとき

成長という上げ潮はすべての船を浮かばせるかもしれないが、すべての船を同じ高さまで浮かばせるとは限らない。(p.295)

途中まで読み進めたとき、ふと、冒頭の問いに立ち戻る。

富裕国にとって、経済成長はそもそも優先すべき課題なのか。(p.10) 

以前「ベラルーシの林檎」という女優・岸恵子氏のエッセイ(超おすすめ)を読んで、資本主義とは、と遠い国に思いを馳せたことがある(ベラルーシは、東ヨーロッパ、ロシアの西に位置する共和制国家)。

その頃わたしは、株式会社はなぜ毎四半期成長しなければいけないのか、と考え事をしていた。今となっては最高財務責任者となった上司にも聞いた。その上司の答えは、株主の期待に応えなければいけないからというもので、わたしも未だにこれが答えだとは思っていない。

この毎年の成長はどこまで求められ、続けていかなくてはいけないのか。世界がひとつの国であると考えたら、国同士平等になることなんて絶対ないんじゃないかと、つまりはふと『絶望』もした。

でもこの本で意外だったのは、希望や幸福のために成長が本当に必要なのか、と問い続けていたことだ。

 デリーでもワシントンでも北京でも、排出規制を求める声に対して政府は腰が重く、成長を盾に行動に移ろうとしない。GDPの拡大はいったい誰を利するのか、という議論は後回しにされている。(中略)経済学の理論からしても、またデータを見ても、一人当たりGDPの最大化がつねに望ましいという証拠はどこにも存在しないのである。(p.326-7)

経済成長が、気候変動への対応不平等の是正よりも優先され続けてきたのだ。「人新生の資本論」も、脱成長を論じていたのを思い出す。

「絶望」の源泉は、もしかして経済成長だったのかもしれない。

この本では、社会の重要な課題解決への提案として、経済的に繁栄した地域への移動を阻む障害を取り除き、また移動者(移民など)へ配慮すること、途上国へのクリーン技術移行への資金援助や、(一旦の)失業&リカレント教育を当たり前にしてジョブチェンジをしやすくするデンマークの「フレキシキュリティ」制度や、貧困層への尊厳や敬意を重視した職業紹介プログラムなど、一見経済性の低そうな提案が並ぶ。

でもここで止まってはいけない。

行動の呼びかけは、経済学者だけがすべきものではない。人間らしく生きられるよりよい世界を願う私たち誰もが声を上げなければならない。経済学は、経済学者に任せておくには重要すぎるのである。(p.467)

たぶん「絶望」の源泉はもう一つ、思考停止することだ。最後まで読むと、この本の冒頭に戻りたくなる。

個人の価値観は拵え上げられ報道された数字や単純化された解釈に頼っていて、自分の力で問題を一生懸命考えてみようとする人はまずいない。(p.10)

つまり、「希望」を得るには考え続けるしかないのだ。



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